ブレイブ〜を見ているとね、これを思い出すんですよ。この言葉を。
と思っていたら、ラウ導師さまこと伊東四朗氏も同じようなことをこの映画に就いてのインタビューで語っていたんだけど。

それはともかく、だからといって武士道を突き詰めていくのは自分の道には反してしまうようなのでやらないけど、某ボクシング兄弟+親子に理解して欲しい言葉かなと思った。
少なくても、やっていること・言っていることはどちらも幼い。非常に稚拙だ。そこら辺を歩いているプータローなニーチャンと何ら変わらない。結局はけんかが強いから世界のチャンピオンになったってだけで、そこには「義」を感じないんですよ。ある意味での「勇」はあるかもしれないけど。そうした言動が日本人としては今まで恥とされてきたことだし、それは「義」とはかけ離れた言動だろう。となれば、やはりけんかが強いと言う意味だけでの「勇」はあるんだろうけど、本当の意味での「勇」を彼らには感じないんですよ・・・。

ともあれ、自分も今日の未明に買い物に出掛けたら狭い店の入り口に自転車を乗りつけた「今時いるか?」的なネーチャンがいて、カートを非常に仕舞いづらくてキレそうになったものですが、そういう人間に何かを言うことが果たして「勇」なのかという問題がありますよね。
おそらく、そういう人間に何かを言えば、その人間がキレるかその彼氏を呼んでキレさせるか、若しくは馬耳東風で無視されるのがオチ。
だとしたら、その人間への「義」のための「教え」は全くの水泡に帰してしまうのであって、意味がなくなってしまう。それは「義」ではないのではないか。言い方を変えてみても、警察沙汰にしてもおそらく変わるまい。であれば、諦観ではあるけれども「言わない」というのも一つの手段ではないかと思うようになっている。それは決して「勇」ではないかもしれないけど、目の前に広がりひどい言動がいくら何をやっても変わらないのであれば、もうどうしようもないじゃないか、と。
無論、「言う」という行為自体が「義」であり、その自分が「勇」であることは当然なんだけれど、結果として何も変わらないなんて。
残念だけど、今の日本ではこの言葉はなかなか受け容れられないというか、もう死語に近いんでしょう。

だから、ブレストは多く、酷評されてしまったんでしょうね。そりゃ、受け容れがたいでしょう。「正義のためには自分が損をしてもいい」と考える政治家がまずいないんだから。そしてそういう国になってしまっているんですから。

でもね。
私はこの言葉は大事にしたいと思っています。基本的に私の根底を流れているのはこれですから。正しいことは正しいのです。間違っているものは間違っているのです。これからもそのスタンスは変えていきません。
私は一人でもいいんです。独りでも。でも、正しいと思ったことを追い続けようと思います。

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