漸く読み終えた「きけわだつみのこえ」(岩波文庫)
気になった部分を取り上げて行きたいと思う。

読書感想文然り、改憲論者然り、好戦的な者然り、様々な人に読んでもらいたいからだ。
長いので、注意。

無論、興味のない方は飛ばして頂いて全く問題がない。BLやブレストとは何の縁もないのですから。


木村 久夫
京大経済学部学生。昭和17年10月入営。21年5月23日シンガポール、チャンギー刑務所において戦犯刑死。陸軍上等兵。28歳。

(前略)
 日本は負けたのである。全世界の憤怒と非難との真只中に負けたのである。日本がこれまであえてして来た数限りない無理非道を考える時、彼らの怒るのは全く当然なのである。今私は世界全人類の気晴らしの一つとして死んで行くのである。これで世界人類の気持が少しでも静まればよい。それは将来の日本に幸福の種を遺すことなのである。

 私は何ら死に値する悪をした事はない。悪を為したのは他の人々である。しかし今の場合弁解は成立しない。江戸の敵を長崎で討たれたのであるが、全世界から見れば彼らも私と同じく日本人である。彼らの責任を私がとって死ぬことは、一見大きな不合理のように見えるが、かかる不合理は過去において日本人がいやというほど他国人に強いてきた事であるから、あえて不服はいい得ないのである。彼らの眼に留った私が不運とするより他、苦情の持って行きどころはないのである。日本の軍隊のために犠牲になったと思えば死に切れないが、日本国民全体の罪と非難とを一身に浴びて死ぬと思えば腹も立たない。笑って死んでいける。

(中略)苦情をいうなら、敗戦と判っていながらこの戦を起した軍部に持って行くより仕方ない。しかしまた、更に考えを致せば、満州事変以来の軍部の行動を許して来た全日本国民にその遠い責任があることを知らねばならない。

 我が国民は大きな反省をなしつつあるだろうと思う。その反省が、今の逆境が、将来の明るい日本のために大きな役割を果すであろう。それを見得ずして死ぬのは残念であるが致し方がない。日本はあらゆる面において、社会的、歴史的、政治的、思想的、人道的の試練と発達とが足らなかった。万事に我が他より勝れたりと考えさせた我々の指導者、ただそれらの指導者の存在を許して来た日本国民の頭脳に責任があった。

 かつてのごとき、我に都合の悪しきもの、意に添わぬものは凡て悪なりとして、ただ武力をもって排斥せんとした態度の行き着くべき結果は明白になった今こそ凡ての武力腕力を捨てて、あらゆるものを正しく認識し、吟味し、価値判断することが必要なのである。これが真の発展を我が国に来す所以の道である。

 (中略)凡ての物語が私の死後より始まるのは悲しいが、私にかわるもっともっと立派な頭の聡明な人が、これを見、かつ指導して行ってくれるであろう。何といっても日本は根底から変革し、構成しなおさなければならない。若き学徒の活躍を祈る。

 (中略)

 我々罪人を看視しているのは、もと我軍に俘虜たりし「オランダ軍」の兵士である。かつて日本軍兵士より大変なひどい目に遇わされたとかで、我々に対するシッペイ返しは相当のものである。殴る蹴るなどは最も優しい部類である。しかし我々日本人もこれ以上の事をやって来たのを思えば文句はいえない。ブツブツ文句をいっている者に陸軍の将校の多いのは、かつての自己の所行を棚に上げたもので、我々日本人さえもっともだとは思われない。一度も俘虜を扱った事のない、また一度もそんな行為をした事がない私が、かようなところで一様に扱われるのは全く残念ではあるが、しかし向うからすれば私も同じ日本人である。区別してくれという方が無理かも知れない。しかし天運なのは私は一度も殴られた事も蹴られた事もない。大変皆から好かれている。我々の食事は朝、米粉と糊と夕方に粥を食う二食で、一日中腹がペコペコで、ヤット歩けるくらいの精力しかない。しかし私は大変好かれているのか看視の兵隊がとても親切で、夜分こっそりと「パン」「ビスケット」煙草などを持って来てくれ、昨夜などは「サイダー」を一本持って来てくれた。私は全く涙が出た。その物に対してよりもその親切にである。その中の一人の兵士があるいは進駐軍として日本へ行くかも知れぬというので、今日私は私の手紙を添えて私の住所を知らせた。この兵士らは私のいわば無実の罪に非常に同情して親切にしてくれるのである。大局的には極めて反日的である彼らも、個々の人として接しているうちには、かように親切にしてくれる者も出て来るのである。やはり人間同志だと思う。

 この兵士はかつて我軍の俘虜となっていたのであるが、その間に日本の兵士より殴る、蹴る、焼くの虐待を受けた様子を語り、何故日本兵士にはあれほどの事が平気で出来るのか全く理解が出来ないといっていた。また彼には、日本婦人の社会的地位が低い事が理解できぬ事であるらしい。

 (中略)

 私は生きるべく、私の身の潔白を証明すべくあらゆる手段を尽した。ワタシの上級者たる将校連より法廷において真実の陳述をなすことを厳禁せられ、それがため、命令者たる上級将校が懲役、被命者たる私が死刑の判決を下された。これは明らかに不合理である。(中略)美辞麗句ばかりで内容の全くない、彼らのいわゆる「精神的」なる言語を吐きながら、内実においては物慾、名誉慾、虚栄心以外の何ものでもなかった軍人たちが過去において為して来たと同様の生活を将来において続けて行くとしても、国家に有益なる事は何ら為し得ないのは明白なると確信するのである。日本の軍人中には偉い人もいたであろう。しかし私の見た軍人中には偉い人は余りいなかった。早い話が高等学校の教授ほどの人物すら将軍と呼ばれる人々の中にもいなかった。監獄において何々中将、何々大佐という人々に幾人も会い、ともに生活して来たが、軍服を脱いだ赤裸の彼らは、その言動において実に見聞するに耐えないものであった。(中略)彼らが大言壮語していった「忠義」「犠牲的精神」はどこへやったか。終戦により外身を装う着物を取り除かれた彼らの肌は、実に見るに耐えないものだった。

 しかし国民はこれらの軍人を非難する前に、かかる軍人の存在を許容し、また養って来た事を知らねばならない。結局の責任は日本国民全体の知能程度が浅かった事にあるのである。知能程度の低い事は結局歴史の浅い事だ。二千六百余年(注:「皇紀」、つまり「皇暦」をさしているものと思われる)の歴史があるというかも知れないが、内容の貧弱にして長いばかりが自慢にはならない。(中略)

 私の軍隊生活において、将校連が例の通り大言壮語していた。私が婉曲ながらその思想に反対すると「お前は自由主義者だ」と一言の下に撥ね付けられたものだ。軍人社会で見られた罪悪は、枚挙すれば限りがない。それらは凡て忘却しよう。彼らもやはり日本人なのであるから。しかし一ついっておきたい事は彼らは全国民の前で腹を切る気持で謝罪し、余生を社会奉仕のために捧げなければならないことである。(後略)


アベシンゾーくんは、この文章を何と読むのだろうか。非常に知りたい。
そして、


川島 正
昭和15年東京農大卒業。同年12月入営。華北部隊に編入。20年1月華中にて戦死。29歳。

昭和十八年一月三十一日 晴
 (中略)中沢隊の一兵が一支那人(注:この場合の「シナ」は差別的用語でもあるが、文意を考慮してママ表記させて頂く)を岩石で殴打し、頭蓋骨が割れて鮮血にまみれ地上に倒れた。それを足蹴にし、また石を投げつける。見るに忍びない。それを中沢隊の将校も冷然と見ている。高木少尉の指図らしい。冷血漢。罪なき民の身の上を思い、あの時何故後れ馳せでも良い、俺はあの農夫を助けなかったか。自責の念が起る。女房であろう、血にまみれた男にとりついて泣いていた。しかし死ななかった。軍隊が去ると立ち上がって女房に支えられながらトボトボ歩き去った。
 俺の子供は軍人にはしない。軍人にだけは・・・・・・平和だ、平和の世界が一番だ。
(後略)


中韓が嫌いな人間は、こういう文章を読んでみるといい。虐待は確かにあったんですよ。こうした人間が嘘を書いているとでも言うなら、それこそ英霊への侮辱であるはずだ。だったら、やはり日本は平和にしなければならないのではないか。中韓と憎しみあうよりも、昔のこういう事象をきちんと捉え、日本人は謙虚に生きるべきではないのか。
無論、うちの父親は認知症になる前、生前にこう言っていた。
「自分は兵隊には出た。でも基本的には炊事場にいた(調理師のため)から、銃は殆ど持っていない。だから、自分は中国の人間ともそれ相応に良くやっていた。でも、悪いことをやっている人間はもっといた」

と。
今の時代、今の世代だけでアジアを捉えるのではなく、やはり80年90年と生きている人間の世代も含めてアジアを捉えなければ、いつまで経っても戦後は終わらないはずだ。
アベシンゾーがおそらくシュショーとやらになってしまうだろう。
そうなれば、もっとこういう私のようなことを考える人間はマイノリティーになってしまうのだろう。おそらくは某巨大掲示板あたりでこういう文章をコピペしては笑い者にしていることだろうと思う。

でも。

自分は間違っていないと確信するし、これからもこのスタンスを変えるつもりはない。これからどんどん右傾化していってもだ。このブログと自分のリアルの生活では、きちんと物事を筋道立てて考えるようでありたいと思う。

 

最後にこの言葉。
・ジャン・ジョレース〜
「私は合法性への迷信を持つものではないが、暴力は人間としての弱さであると思う」

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