社会は「個人主義」というけれど、それは違う。
「利己主義」である。
これは明治時代にすでに夏目漱石によって語られている。それがこの本、「私の個人主義」という講演集に書かれている。
私の座右の銘が詰まった一冊です。
=== また以下は長く難解な言い回し多用です。苦手な人はスルー下さい ===
NHKで「ワーキングプア」をテーマにした番組を見る。
その昔、日本では「物乞い」といういわば職業となっている人がいた。各家庭を回り、「おにぎりを頂戴」と回って食費を浮かす人。無論今で言う所の「ホームレス」なんだけれど、それでも今よりは暮らしやすかったに違いない。一方、小学校の前には「カラーひよこ」を売っている「いかにも」なおじさんがいた。または夏休みの映画(「東映マンガまつり」とか)チケットの割引券を配り歩く人やら、通信添削講座の勧誘などが出没したりして、翌日の朝礼なんかで「変な勧誘には気をつけましょう」という校長の言葉を聞くことになっていた。また、「押し売り」という職業もあった。「俺は昨日ムショから出てきたばかりなんだ。生活に困っているからゴムひもを買わねぇか?」とどすの聞いた声で話しながら、包丁と一緒に(ということになるんだけど実際には「これはよく斬れるんだよ」などと口上を延べ「脅して買わせる」ツールとして用いていた)売り歩いていた。まぁ、これも今では絶対に存在できないはずであるし迷惑な職業ではあるけれども、その時代には何と言うか、社会と底辺社会というものが今ほど乖離していないような社会だったと思う。少なくても、こうした職業というものは私が小学生まではあったと思うが、あの時代はそんな時代だった。
自分も「非正規雇用」の人間、派遣社員なので言えることではあるが、やっぱりこれはコイズミちゃんを初めとするカイカクのせいなんですよ。
もっと言うと、戦後日本長い期間をかけて培われてきた「利己主義」の賜物ではなかろうか、と。
「税金を払ってそれが底辺社会に行くのは許せない」
「底辺社会の人間は努力が足りないからだ」
これを利己主義といわず、何と言えるかということです。
底辺の人間でも相応の稼ぎに応じての税金は払っています。いやもっと払っているのではないでしょうか。生活費における税率に関して言えば。
どこぞの大学のオエライ先生はこんなことを言ってました。
「トライできる日本に出来ることが重要です。トライして失敗して負けたとき、その人に税金を投入するのはどうかと思いますが」
というようなことを。
とってもオエライ先生のようで、まぁそういう先生に日本を真剣に考えてもらって日本の将来はとてつもなく明るいものになりそうですが、それはともかく、某ゴーマニズムな先生にも似ていらっしゃいました。こういうことを考える先生と言うのは、みんな似てくるものなんですね、という発見も私にはビックリでした。
閑話休題。
つまり、こういう先生は、
「セーフティーネットは必要ない」
「失敗したのはその人の努力が足りないから失敗したのだから、自己責任だ」
「自己責任だから、失敗した貧乏人は耐えて苦しんで生きていけ」
ということを我々に教えてくれたんですね。
果たして、この先生の言うことが正しいのか??
いや、正しいわけないだろう。
努力をしても報われない、それは何かの原因はあるだろうしまた何かの時代性というものもあろう。
それなのに個人のせいにだけして、周りの人間はそれを「個人の自己責任」として見ないふりをする。先にも書いた「自分は兵隊として戦地には赴きたくないけど、どうせ自衛隊が行ってくれるんでしょ?だったら戦争してもいいんじゃない?」というのと同様、「個人」対「個人」の希薄なつながりによるものではないだろうか、と心から後ろ寒く思う。そして、そのノンノンと見ている側の人間は「自分はバカを見たくないから」とちょっとの喜捨も許さぬ「利己主義」の塊で相手を見ている。その冷酷な魂を感じるにつけ、これまた一抹の寒さを覚える。
ここで私は「喜捨」と書いたが、「喜捨」はおそらく日本ではなかなか浸透しないことではないだろうか。古来の日本では仏教に帰依するなどに於いてなされたことであるが、例えばヒルズ族で大成功を収めた人間が、例えばマイクロソフトのビル・ゲイツのように大きな「喜捨」つまり「寄付」をしているとは聞こえてこない。まぁ、これは一因として「寄付」をしても税金対策にならないという点もあるのだが、それにしても酷すぎはしないか。
日テレで毎年やる「24時間テレビ」でも、募金される金額は日本人1人づつが「年に1度電話を短めにする」だけで出来るはずの「10円」を寄付するよりははるかに少ない(バブル期も含めた27年間でおよそ242億円、つまり1年あたり8億9600万円程度と、9億円にも満たない)。また、例えば発展途上国に物資を送るというとあるNGOでは「衣服を集めます」となったときに「いくら何でももう着られない」というような服の方が多数になってしまい、その仕分け作業に追われてしまっているとの話も聞く。つまり、NGOのそうした活動を「廃品回収」か何かと間違っているのではないかというのだ。いくら発展途上国の人間でも「人間としての尊厳」は存在する。その人たちに「ボロ雑巾のような服」を送ることは日本の人間に「尊厳を傷つけられた」と感じるに違いない。以前どこかの国へオーストラリアの政府が「犬のえさ」を貧困国の子供たちに寄付するということで問題になったことがあった(「犬のえさ」としても人間が食べられるし栄養価も高くていいと思ったそうだ)が、貧困国のほうではそれを突っぱねたそうだ(その国にとっては犬は一番の下等なものとした考え方もあるらしい)。それを発展国の人間は「人の善意を無駄にして」と怒った人間もいるそうだが、いやしかしそれはオーストラリア側が全面的に悪いだろう、と何故思えないのか。それは「○○してやっている」という驕りじゃないのか、と言いたい。
よく旦那が「俺は家族のために金を稼いで来てやっている」と言って偉ぶるのが「いやな旦那」の代名詞として用いられることがあるが、それと何が変わろうか。
また、日本では子供の頭をナデナデすることは「かわいがっている」として良かれと思われることだが海外・特に東南アジアの国々では宗教的に毛嫌う場所も多いのだが、おそらく日本の観光客の中でも知らずにやっている人間は今でも多いのではないだろうか。「良かれと思っても悪いことがある」ということの代名詞であるが、自分の物差しで日本人は物事を考えすぎじゃなかろうか、と。それが「利己主義」として顕現しているのではないか、と。
「個人主義」は大切です。個人は大切だし、個人は尊重されるべきものですから。
しかし、「利己主義」はいけません。
それは「ワガママ」です。
「ワガママ」というものを「個人主義」だと勘違いし、好き勝手やることは許されるものではないのではないでしょうか。それは電車の中でも街中でも、学校でも会社でもそうです。
この際ですから、
「個人主義」言うなれば「自己主義」または「他人尊重主義」
「利己主義」言うなれば「自由主義」または「ワガママ主義」
を分けて考えてみませんか?
「利己主義」である。
これは明治時代にすでに夏目漱石によって語られている。それがこの本、「私の個人主義」という講演集に書かれている。
私の座右の銘が詰まった一冊です。
=== また以下は長く難解な言い回し多用です。苦手な人はスルー下さい ===
NHKで「ワーキングプア」をテーマにした番組を見る。
その昔、日本では「物乞い」といういわば職業となっている人がいた。各家庭を回り、「おにぎりを頂戴」と回って食費を浮かす人。無論今で言う所の「ホームレス」なんだけれど、それでも今よりは暮らしやすかったに違いない。一方、小学校の前には「カラーひよこ」を売っている「いかにも」なおじさんがいた。または夏休みの映画(「東映マンガまつり」とか)チケットの割引券を配り歩く人やら、通信添削講座の勧誘などが出没したりして、翌日の朝礼なんかで「変な勧誘には気をつけましょう」という校長の言葉を聞くことになっていた。また、「押し売り」という職業もあった。「俺は昨日ムショから出てきたばかりなんだ。生活に困っているからゴムひもを買わねぇか?」とどすの聞いた声で話しながら、包丁と一緒に(ということになるんだけど実際には「これはよく斬れるんだよ」などと口上を延べ「脅して買わせる」ツールとして用いていた)売り歩いていた。まぁ、これも今では絶対に存在できないはずであるし迷惑な職業ではあるけれども、その時代には何と言うか、社会と底辺社会というものが今ほど乖離していないような社会だったと思う。少なくても、こうした職業というものは私が小学生まではあったと思うが、あの時代はそんな時代だった。
自分も「非正規雇用」の人間、派遣社員なので言えることではあるが、やっぱりこれはコイズミちゃんを初めとするカイカクのせいなんですよ。
もっと言うと、戦後日本長い期間をかけて培われてきた「利己主義」の賜物ではなかろうか、と。
「税金を払ってそれが底辺社会に行くのは許せない」
「底辺社会の人間は努力が足りないからだ」
これを利己主義といわず、何と言えるかということです。
底辺の人間でも相応の稼ぎに応じての税金は払っています。いやもっと払っているのではないでしょうか。生活費における税率に関して言えば。
どこぞの大学のオエライ先生はこんなことを言ってました。
「トライできる日本に出来ることが重要です。トライして失敗して負けたとき、その人に税金を投入するのはどうかと思いますが」
というようなことを。
とってもオエライ先生のようで、まぁそういう先生に日本を真剣に考えてもらって日本の将来はとてつもなく明るいものになりそうですが、それはともかく、某ゴーマニズムな先生にも似ていらっしゃいました。こういうことを考える先生と言うのは、みんな似てくるものなんですね、という発見も私にはビックリでした。
閑話休題。
つまり、こういう先生は、
「セーフティーネットは必要ない」
「失敗したのはその人の努力が足りないから失敗したのだから、自己責任だ」
「自己責任だから、失敗した貧乏人は耐えて苦しんで生きていけ」
ということを我々に教えてくれたんですね。
果たして、この先生の言うことが正しいのか??
いや、正しいわけないだろう。
努力をしても報われない、それは何かの原因はあるだろうしまた何かの時代性というものもあろう。
それなのに個人のせいにだけして、周りの人間はそれを「個人の自己責任」として見ないふりをする。先にも書いた「自分は兵隊として戦地には赴きたくないけど、どうせ自衛隊が行ってくれるんでしょ?だったら戦争してもいいんじゃない?」というのと同様、「個人」対「個人」の希薄なつながりによるものではないだろうか、と心から後ろ寒く思う。そして、そのノンノンと見ている側の人間は「自分はバカを見たくないから」とちょっとの喜捨も許さぬ「利己主義」の塊で相手を見ている。その冷酷な魂を感じるにつけ、これまた一抹の寒さを覚える。
ここで私は「喜捨」と書いたが、「喜捨」はおそらく日本ではなかなか浸透しないことではないだろうか。古来の日本では仏教に帰依するなどに於いてなされたことであるが、例えばヒルズ族で大成功を収めた人間が、例えばマイクロソフトのビル・ゲイツのように大きな「喜捨」つまり「寄付」をしているとは聞こえてこない。まぁ、これは一因として「寄付」をしても税金対策にならないという点もあるのだが、それにしても酷すぎはしないか。
日テレで毎年やる「24時間テレビ」でも、募金される金額は日本人1人づつが「年に1度電話を短めにする」だけで出来るはずの「10円」を寄付するよりははるかに少ない(バブル期も含めた27年間でおよそ242億円、つまり1年あたり8億9600万円程度と、9億円にも満たない)。また、例えば発展途上国に物資を送るというとあるNGOでは「衣服を集めます」となったときに「いくら何でももう着られない」というような服の方が多数になってしまい、その仕分け作業に追われてしまっているとの話も聞く。つまり、NGOのそうした活動を「廃品回収」か何かと間違っているのではないかというのだ。いくら発展途上国の人間でも「人間としての尊厳」は存在する。その人たちに「ボロ雑巾のような服」を送ることは日本の人間に「尊厳を傷つけられた」と感じるに違いない。以前どこかの国へオーストラリアの政府が「犬のえさ」を貧困国の子供たちに寄付するということで問題になったことがあった(「犬のえさ」としても人間が食べられるし栄養価も高くていいと思ったそうだ)が、貧困国のほうではそれを突っぱねたそうだ(その国にとっては犬は一番の下等なものとした考え方もあるらしい)。それを発展国の人間は「人の善意を無駄にして」と怒った人間もいるそうだが、いやしかしそれはオーストラリア側が全面的に悪いだろう、と何故思えないのか。それは「○○してやっている」という驕りじゃないのか、と言いたい。
よく旦那が「俺は家族のために金を稼いで来てやっている」と言って偉ぶるのが「いやな旦那」の代名詞として用いられることがあるが、それと何が変わろうか。
また、日本では子供の頭をナデナデすることは「かわいがっている」として良かれと思われることだが海外・特に東南アジアの国々では宗教的に毛嫌う場所も多いのだが、おそらく日本の観光客の中でも知らずにやっている人間は今でも多いのではないだろうか。「良かれと思っても悪いことがある」ということの代名詞であるが、自分の物差しで日本人は物事を考えすぎじゃなかろうか、と。それが「利己主義」として顕現しているのではないか、と。
「個人主義」は大切です。個人は大切だし、個人は尊重されるべきものですから。
しかし、「利己主義」はいけません。
それは「ワガママ」です。
「ワガママ」というものを「個人主義」だと勘違いし、好き勝手やることは許されるものではないのではないでしょうか。それは電車の中でも街中でも、学校でも会社でもそうです。
この際ですから、
「個人主義」言うなれば「自己主義」または「他人尊重主義」
「利己主義」言うなれば「自由主義」または「ワガママ主義」
を分けて考えてみませんか?
コメント
その大学の某先生とやらは、ある事に気付きながら嘘をついていますね?
いかにも竹中 平蔵あたりが、謂いそうな嘘ではあります。
「トライできる日本に出来ることが重要です。トライして失敗して負けたとき、その人に税金を投入するのはどうかと思いますが」
これは、トライ出来ない社会を問題にしている素振りを見せているくせに、本来の発言の意図とは違う所にあるのが見え見えです。
仮にトライ出来る社会を構築するというのであれば、
一人一人の機会が平等であるという前提があって、
初めて問題提起出来ると思う。
本当はトライして、失敗しても応援するというのが正しい姿だ。
今、現実の社会で問題になっている事は、そういったセーフティ・ネットが機能を果たしていないことが、トライ出来ない社会と、政官業、そしてヤクザの癒着構造を容認してしまっているのではないのか?
リスクを怖れて誰もトライしなくなることで、経済格差がさらに拡大、そのことで教育や医療を含めた環境の違いが、更に格差の再生産を繰り返す。
その結果、挑戦するリスクは増大し、結果として誰も挑戦出来ない社会になる。
普通、私でさえ分かることを、
学者先生ほどの人ががその事に気付いていないとオカシイ。
つまり、結果としてどのような事態になるのか、良く熟知した上で、ある方向へ誘導させる為に発言していると考えるのが自然だと思う。
基本的に政治とは、いや人間と人間との関係そのものが、
利己主義によって貫徹されているものである。
ちゃんと、民主制について考える頭のある人間であれば、
その剥き出しの暴力を踏まえているからこそ、
法律や福祉制度の重要性を無視する事が出来ないことを
理解すると思うのだが、どうも民度が低いんだな・・・・
。
そもそも、政治の多くは老獪な政治家たちの保身的とも言える自分たちの懐のことを考えた政治が多いわけですし、若い人たちの未来なんて全然考えちゃいない。もっというと、考えちゃいないというより、考えることを放棄さえしている。「どうなってもその時はその時の政治が決める」というような日和見主義な考えで満ちている。
若いうち(まだ感受性がある人たちを中心に)は、日々それに流されながら必死こいて進むだけしか出来ないものですが、それにかまけてそういう風潮に何かしらのメッセージを発してこなかった・・・否、諦めてさえいたのかもしれません。
今の政治は、「一部の、一部による、一部のための政治」という気がしてなりません。参政権はあってもごく一部の人間しか行使せず(諦めて)、また行使しても一部の人間に煽動されたマスコミによる情報に惑わされて正しい判断がつかない行使の仕方をし、その結果として一部の人間が得をするという政治になってしまっているように見えます。
昨日書いた後に思ったことは、
「苦しい人の気持ちは苦しくない人には分からない」
「昔苦しんだ人も今苦しくない人には今苦しい人の気持ちは分からない」
ということ。「雪の降らない地方の人に雪の話をしても分からない」とは言いますが、本当にその通りだなと思うようになってきました。昔は「そんなことはない、人間は深く考えることが出来る動物であるからして、説明をすれば分かってもらえる」と信じていたんですが。
「他人の疝気を頭痛に病む」というような人は、もうこの世では絶滅危惧種なのかもしれないですね。
葬り去られたと私は考えています。
歴史を学ぶ大きな理由の一つとして、
過去からの失敗から教訓を得るという事があります。
歴史は民主制という制度が、いかに挫折と失敗の連続
であったのか否応なく我々に突付けています。
民度が低下すると、途端に衆愚政治になってしまう。
自民党や公明党に投票するような連中は勝手に自滅すればいいだけなののですが、こんなものに私を巻き込まれたんじゃ私としてはたまったものじゃない。
何とかならんものかと思えども、圧倒的大多数が救いようの無い馬鹿では、もう打つ手が無い・・・・。
また似たような教訓を歴史の残すのでしょうか、
それとも歴史そのものが消滅するのでしょうか?
私はどうも後者のほうが可能性が高い気がしてなりません・・・。
うーん・・・。
右の人の顔ってみんな同じに見える。
よく言えば「権威」のある顔、悪く言えば「個性のない」顔。
彼らの今までの生活というものが、そうさせているんでしょうが、何と言うか・・・ちょっとアレですね、こういう人たちが会社などの集団の上層部で君臨していて、その下にいなければならないなんて、自分はまっぴらです。
あれはウヨでも何でもなく、ただ単に玩具と武器の区別がつかないトッチャン坊やにしか過ぎません。
いくらウヨが三島を筆頭に自己陶酔のアホばっかり(サヨも同じようなものですが)とはいえ、
ウヨを名乗るような見識が彼奴にあろうはずがありません。
いくなんでも、ウヨが可哀想ですよ。(笑)
右翼を標榜している連中が、相互扶助さえマトモに機能していない状況についてどう考えているのか、私は非常に興味があります。
共同体と伝統を重視する立場からすれば、相互扶助が機能していない状況は断じて許しておくべき状況ではないはずです。
今の状況は批判しなければならない筈だけど、日本の右翼はヘタレばっかりです。
ちなみに今、保守などと名乗っている連中は売国奴なだけで、ウヨでも何でもないです。
私はいつでも二元論というものに縛られたり、または支配されたりということから避けて通って来ているので、自分が「右」とか「左」とか言う議論には与しないためそういうのを語るような立場にないと思っているのですが、確かに昔に比べてどちらも「勢い」というものはないでしょうね。まぁ国家公安委員会がそれだけ強くなったのか、それとも国民の多くが飼い馴らされただけなのか、そこら辺が良く分からない所ですけど。というより、もしかしたら混じりあってきてさえいるのかも知れないですね。酸とアルカリが中和するように。
売国奴・・・。
まぁ・・・、多くの古株の与党の人間や、それにへびらう議員たちは確かにそうですね。今は「保守」ということを掲げた方が、自分の職を失わずに済む。だから野党は動きにくいし、下手したら野党側でさえ「保守」を掲げかねない状況と言いますか。
何度も書いているように、結局日本の国民の多くが「現状満足」なんでしょう。そしてみんな「自分がかわいい」から、自分より立場的に劣っている人が困ったままだとしても、「改新」と距離を置く(無論この「改新」とは「保守」を進めるコイズミカイカクではない)。
まぁ、いずれにしても、アベちゃんが総理になるのはほぼ確実な情勢です(とは言えガリガリの谷垣でもライスにお似合いの麻生でもイナカッペの額賀でも同じようなものだけど)し、将来に期待が持てない状況はこれからも延々と続いていってしまうのですが。
その辺の事が全く理解出来ていない大衆という生き物は、全く以てお幸せに出来ているんでしょう。
明日は我が身とは考えないんでしょうか?
統一教会と仲の良い安倍が総理ですか・・・
活字が読めない麻生といい、ミリタリー・オタ以下の安倍といい、これがこの国の民度という奴です。
それにしても、ここまで低劣な奴等をよくも選び出すものですな・・・・。ここまでくれば一つの特技とも言うべき能力だと思います。
何でここまで気分だけの保守が蔓延るようになったのか、それは日本共産党と日本社会党が、マルクスレーニン主義に固着すし、現実を踏まえた議論と行動をやって来なかった為です。
この罪は本当に万死に値する。
その点、ヨーロッパ、特にイタリアやドイツの左翼政党はこの点において非常に柔軟性を持っていた。
しかし、我が国の左翼運動はこの点において全くお話にならないどころか、マルクス・レーニン主義がもたらした地獄を総括することさえ、いまだにやろうとしない。
その揚げ句が村山内閣。
もう、まともな脳味噌を持っていたら軽蔑するしかできないです。
ソヴィエトの崩壊などを目の当たりにした大衆が、
「サヨク=ああいう無責任でなにも行動しない連中」
という構造で革新というものを捉えるようになってしまったのは、極めて当たり前の行動であります。
で、やり口が全くサヨクと変わらない(要するに分かり易い)、西尾 幹二とか小林 よしのりを真に受けるアホが、
どんどん増殖し続けている訳です。
彼らに共通するのは、物事の経緯や歴史をちゃんと調べて考える訓練を怠ってきているということです。自己に関係のある問題を他者の利害を想定して考える能力が無いんです。
つまり対話の出来ないアホばかり・・・・。
まったく、お目出度い事です・・・・。
お笑い以外の何物でもなかったです。
ペログリと公安の戦いですね。
言ってしまえば、「渋谷のチーマー」vs「渋谷道玄坂警察」と言う感じに見えていました。
どっちも政治を語るだけのレベルではないだけに、何とも投票率もお寒い結果として反映しました。
歴史ねぇ・・・。
この国では歴史は「学問として勉強」でしかなく、「人生における勉強」ではないように思えます。
現在読んでいる「きけわだつみのこえ」の中から、20年4月に済州島沖で戦死した武田喜義氏の文から言うと、
「“我執を棄てよ”という。しかしそんなに簡単に捨てられる我執だったら、軍隊生活半ケ年、もうとうの昔にしまつしてあるはずだ。棄てても棄てきれない自分。自分で最も良いものとして信じている自分の姿、それは最後まで大事に立派に育て上げるのだ。
(中略)
大衆の中に没するということは永久に大衆の中に自己を滅し去ることではないはずだ。大衆の愚劣と平凡と息切れする臭気の波の中から、喘ぎ喘ぎ浮かび上がってきた、未だ滅し切れない自己の姿−−それは凡てを洗い落として凡ての戦いを闘い抜いて、最後に残された自己だ−−に今こそ、手を差しのべて、救い上げてやる時ではないか。
(中略)
日々の生活がともすれば沈滞気味である。希望がないのである。将来に明るさがないのである。一日中課業課業で追われ、三度の食事、すべてが中枢神経をなくした人間のように機械的である−−これで良いのか。しかし、その叫び声は、みるからに弱々しい。
毎日多くの先輩が、戦友が、塵埃のごとく海上に、ばら撒かれて、−−そのまま姿を没してゆく。一つ一つの何ものにもかえ難い命が、ただ一塊の数量となって処理されてゆくのである。
精神的に疲労している−−というより、何かあるものが麻痺している。ことさらに、ひらきなおって一つのことを考える力もない。ただ書物が(わずかな時間をぬすんで読む書物が)清涼剤となってくれる」
という文章があり感じたのですが、人間は精神的に極限でなければ、勉強とか学問というものを欲しないのかもしれません。だから、現在は満たされた塊の人間が多いために、そういうものをかなぐり捨てて、「考える訓練」というものから遠ざかっているように思えます。まぁ、「書を捨てよ、町に出よう」ではありませんが、そればかりになってしまうのかいかばかりか、と思うのみです。
そもそも、こうして心からの叫びなのにかき消されてしまった声を発した者たちを、今の政治が利用しているようにも見えます。だとすれば、「靖国参拝」ということで外面はいいことになっているかもしれないけれども、政治的な意味合いでは最悪の政治家が揃っている状況なのかもしれません。あと30年後40年後もこういう政治家が牛耳っているのかどうかは分かりませんが、あんまり期待が出来ないのは何故でしょうかね・・・。諦めの境地です。
これから先、日本は未曾有の危機に晒されるでしょう。
これは冷静になって考えたら分かる筈です。
アメリカの動きを考えると、世界はとても危険な状況にある。
どうして現実を直視しようとしないのか?
この絶望的な閉塞状況をいかに乗り越えるのか?
それは、一言で要約すれば、
しっかりと現実を見据え、
安易な問題解決を選ばない。
この点に尽きると思います。
自分には今の状況を容認し続けている面々は、状況が大きく変貌してしまったというのに、問題から逃げ続けている卑怯者であります。
そして、その不安を感情的に煽動する事で小金を稼いでいる輩が、今の売国奴どもです。
靖国参拝など、どう考えても国益に反しているという事が分からない。というより、日米の安全保障という幻想が東西冷戦構造の終焉に端を発して、それ以降の存在理由に大いに疑問があるであるにも関わらず、それを直視しようとはしない。
国家機能を支える根本的な所で、
機能不全を起こしてしまっている。
まずこれを正常に機能させなければならない。
では、何をすればいいのか、
1.三権分立をしっかり機能させること。
2.政治家が官僚をきちんとコントロールできること
3. アメリカの家来をやめて、主体的に政策を打ち立て、
実行するヴィジョンを持つ事
良く分かっている筈の事であるにも関わらず、今までの制度の維持しか見えていない執政者にはこれが全く出来ないんです。
近代民主主義の契約関係に基づいた社会運営を成されなければならない所に、互酬関係に基づいた社会運営を持ち込んだら、どうなるか?
既に丸山 真男の「である事とする事」という高校の国語の教科書にさえ掲載されている文章は、この事を指摘しているのですが、今まではアメリカの庇護もあったので、そのやり方である程度上手く行く事は可能だった。しかし東西冷戦構造の終焉はこの関係に終止符を打ったんです。
しかし、我が国の執政者は、その変化をだれも
直視しようとはしなかったんです。
何故かというと、創造的にものを考え、未知の状況にどのように対処していくのかという能力がない奴が執政者だからなんです。ぶっちゃけていえば、本当の意味でのエリートがいないんです。
これこそ、文部省、いや違った文部科学省とマスメディアの圧倒的勝利というものです!!
だから、本当にエリートとしての教育を受けているやつらは、こんなアホな国を捨てて、続々脱出しています。
社会そのものがヒッキーになっちゃっている原因を変えていかない限り、書を捨てて消費者になっても駄目です。
凶暴な街に出て現実と格闘しないと、意味がないんです。
それはただ単に、ヒッキーなだけです。
書を捨てるからには、街に出ないと意味がないんですよ・・・。
>2.政治家が官僚をきちんとコントロールできること
>3. アメリカの家来をやめて、主体的に政策を打ち立て、
1、2は確かに日本では全然なっていませんね。1なんかは地方裁判所なり家庭裁判所なりは比較的庶民に近い立場で考えてくれるわけですが、国などが絡んだ裁判になってくると上に行けば行くほどエリート意識がそうさせるのか圧力なのか(多分両方)、国などの大きい側有利な判決になりますよね。今の日本では遠山の金さんは存在しえませんね。2なんかも、まぁどちらも甘い汁をすするしお互いに仲良くやっていたほうが老後が安定するので全然よくならない。
そして、3が曲者で、「アメリカの属国とならないためにも」という何ともきれいな言い訳を立てて、9条の変更を示唆する政治家たち。上手く言い訳をするのは「ああ言えば上祐」だけかと思えば、実は政治家の殆どがそうなのではないかと思わざるを得ません。
>アメリカの動きを考えると、世界はとても危険な状況にある。
イギリスでのテロ未遂という話がありましたが、「本当かね?」というのが自分の感想でした。もっと言うと、あんまり情報もないし、煽動情報ではないの?という感じがしています。そりゃ、アメリカではブッシュ君が、日本ではコイズミ君が、イギリスではブレア君が、支持率が低下する一方ですからね。何か仮想的を作るほうが得策でしょう。
ともかく、眉唾物な事件(?)です。
>本当にエリートとしての教育を受けているやつらは、こんなアホな国を捨てて、続々脱出
したいですよ。本当に。
イヤ、本当にしている人は結構多いんじゃないでしょうかね。それほどのお金がなくても南の小さい島だったら充分に暮らしていけるでしょう。その方が精神衛生上にどれほど健康的(「健康で文化的な最低限度の暮らし」が出来る)か。
少なくても、きちんと考えられる「葦」にとっては、今の日本が「総凶暴化」している状況下に於いて、「現実」と闘い疲れてしまってます。何も考えずただ流れに任せて生きていければ幸せなのかもしれませんが、自分はそうは生きられない。となると、一生疲弊したまま生きていかざるを得ないのかな、と心底グッタリしてしまいます。
これがあるばっかりに、日米安保を正当化する為の方便として
利用され続けたのではないでしょうか?
もういい加減、9条は変えなければならない。
護憲派は、この状況を全く理解していない。
多くの国民は、信じられない事に日本が戦争に巻き込まれたらアメリカさんが助けてくれると思い込んでいるんです。
これから先は、アメリカさんが日本を戦争に巻き込んでいるというのに・・・・。この意味で日米安保はアメリカの都合によって破棄されたといっても過言ではないです。
今まで、ただの一度たりとも守られた事のない憲法をそのままにしておくという事は、法治国家として絶対にあってはならない事です。
それは全世界に対して嘘をついている事になるからです。
そもそも自衛権の問題さえも定義され無い9条は、
その高邁なのかも知れないけど、人間という生物に対してまったく無知な理念と相反してしまい、際限の無い暴力行使を結果として容認してしまう事になります。
実際、際限ないコジツケのような9条解釈によって、
日本陸軍はイラクに向った事を護憲派は深刻に受け止めなければならない。
日本国民の総意として、非武装、非暴力主義を貫徹しているというのであるのなら兎も角、実際はそんなことは絶対に考えられないことです。
具体的には、現憲法の9条を忠実に実行するのなら、一切の武力を使わないで米軍には出ていってもらった上で、日本の陸、海、空の自衛隊と称する軍隊を全部、解体し、さらに自国の軍事関係の道具や施設を、一切転売しないで処分する事。
そして常備軍を一切組織しない事を明言する事。
ところで、これらのたった一つでもいい。
今まで守られましたか?
一度たりとも守られなかった!!!
という事は、この憲法には根本的に無理があるということです。
なぜならば人間の行動を大きく規定する、恐怖と報復を護憲派は全く不真面目に軽んじているからです。
自分の大事な人間を殺されたら、まず報復する事を考える。
出来なければ恨み続け、報復する機会を待ち続ける。
それが人間というものの本質です。
間違っても、米兵にレイプされた小学生の父親は、
レイプされることはみんなの平和の為だから仕方がない事
なのだ・・・・と言い放つであろうか?
(我が国の政府、いや本土の日本国民は行動で、そのように言明しています。沖縄でどんな人権蹂躙が起きようと我関せずで済まされるのなら、実にお目出度い事なんですがね・・・・)
北朝鮮の秘密工作員に自分の子どもを拉致された親は、みんなの平和の為だから拉致された子どもの事は諦めようと考えるのだろうか?
9条の無責任な非武装、非暴力主義は、皮肉な事に、
米兵の基地駐留を正当化する言い訳に使われてはいないだろうか?
ただ、誤解されたら困るのですが、
今の政府に9条の改正をやらせると、おそらくは際限の無い武力行使を容認する内容にされる。それだけは絶対に避けなければならないと私は考えます。
今の政府がやろうとしている事は、アメリカの手先として我が国の軍隊を利用出来る環境を整える事を目的にしている。
これは日本の安全保障を考えた上でも、非常に危険です。
私が主張している事は、暴力の均衡によって国家間の平和が辛うじて保たれるという現実を踏まえ、無際限な暴力行使を防止する為に、どのような規定の基で軍隊を用いるのか、あるいは用いてはいけないのかという基準を明確に定義すること。
そして、それを日本国民は遵守するという首尾一貫した外交政策を打ち立てる必要があるということです。
あるときに戦争責任について謝罪したかと思ったら、侵略戦争を推進した連中を神として祀ってある神社に、総理大臣として参拝してみたり・・・・。
ここまで挑発するのであれば、どういう理由や考えで参拝するという事を、明確に宣言し説得するということさえなく、あるのは自己満足に終始する馬鹿ヅラばかり・・・・。
こんな契約関係の重要性をまったく理解できないような国家であっていい訳がないです。
首尾一貫した外交関係を構築する為にも、9条は変えなければならないと私は考えます。
今の状況は守れもしない空手形を振りかざして、全世界に対して、すぐにばれてしまう嘘をついている状態です。現政府はそのようなヴィジョンに立脚した改憲ではない。これは非常に危険です。
>もっと言うと、あんまり情報もないし、煽動情報ではないの?という感じがしています。
それだからこそ、どこでも危険な状態を彼らは作り出すと思います。
これはとても危険な状況にあります。揉めなくて良いものにわざと火を付けて回るつもりみたいですから・・・・。
なによりも戦争でも何でもしてまで、貨幣を増やしている彼らとしては、必死なんでしょうね?
世界的な規模で食糧や水を巡る争奪が起きています。
世界的な規模で憎悪の連鎖が起き続けています。
テロリズムの温床など、どこにでも転がっています。
おそらく21世紀という時代はかつてないほど、
人類にとって危機的な時代になると思います。
ということもあり、それならば9条を敢えて今変えて欲しくないと言うのが私の本音です。その意味では自分は護憲派でしょうね。周辺各国に迷惑をお掛けしません、自衛権は外交努力に任せます(アメリカはいりませんから出て行ってください)、という明文が書けるわけもないのですが、もしそうなるんであったら、そりゃ反対する理由はないのですが。・・・100%こうした形への改憲は無理でしょう。
ということもあり、自分は改憲は慎重派なんです。
確かに、自衛権を謳う今の9条では、「日米安保を正当化する為の方便」という感じはしますね。そのことは今まであまり考えてきていませんでした。確かに9条があるから、日本国民はアメリカが助けてくれると思い込み、安保も9条も存在してこられたと思います。
ですが、やはりご指摘の通り、自分もアメリカがすんなりと日本を助けてくれると思えません。中国の方がこれからの外交で重要だと算盤を弾けば日本を敵視するようなことだってやりかねません。いや、現に中国の方が重要って思って来ているんじゃないでしょうか。であれば、9条・安保の意味は薄れてしまう・・・。ならば、アメリカより先にアジア共栄圏(大東亜共栄圏は間違っていたけれども)を築き上げ、アメリカに対しても発言力を持つくらいになった方が、より日本の発展になるのかもしれないですね。EUより強いんじゃないですかね、アジアの共闘は。
先の東京大停電は、初めはテロかと思いました。
しかし、結局事故だと言うことで落ち着きましたが、「テロか?」と思わせられたということは、それだけ日本もテロの脅威から逃れられていないと言うことなんでしょう。
ということは、今の日本も当然「危機が迫る」状況にあるのでしょうし、何か準有事的なことが起こったら、国民はどう対処していくんでしょうかね、アメリカに守ってもらって、自衛隊に守ってもらって・・・。自分たちには殆ど関係ない対岸の火事のように見ているのがオチなんでしょうね。だとしたら・・・本当に全国が火の海になって、アメリカも自衛隊も完全ではないんだと言う段になった時に、国民が如何に「何かに依存していたんだな」と気づくんでしょう。そうなった後、国民は・・・「兵隊を作る」とするのかそれとも「戦争のない国のために戦力と言う戦力は保持しない」とするのか。
でも、やっぱり前者になってしまうように思えます。
アメリカと中国との人的交流はさかんになっています。
日本は中国の役割を過小評価し過ぎです。というのも日本人には他のアジア諸国の人々に対する蔑視と敵視が根付いているので、この事実が見えていない。
中国や韓国を敵視するのも結構ですが、この事実を踏まえない安易な嫌中、嫌韓を叫んでいるだけでは、足下をすくわれてしまいます。
むしろご指摘のように、アジア共同体を構築するのに指導的な役割を日本は果たした方が、今後の日本の位置づけにおいて有利だと私は考えます。
それこそ世界経済において非常に重要な役割を果たす中国に対して
牽制も出来ますしね・・・・。アメリカ一辺倒では危険です。
>周辺各国に迷惑をお掛けしません、自衛権は外交努力に任せます(アメリカはいりませんから出て行ってください)、という明文が書けるわけもないのですが、もしそうなるんであったら、そりゃ反対する理由はないのですが。
そこまで100%遵守して初めて9条を守ったといえるんじゃないのかと思います。それが憲法を遵守するという事です。
戦力的には、日本の軍事予算は世界でもトップクラスです。自衛に限定すれば、これ以上の軍隊をもつ必要は一切ないと考えるし、軍事費の大幅な削減も考慮に入れるべきだと思う。
財政状況が厳しいと称して障害者や老人を切り捨てる政府なのですから、防衛庁解体を実行するのが筋であります。
理由は、そもそも自国の国民の生命と財産を守る為に、我々は国家に暴力を委託している。しかし、国家が国民の生命と財産を守る義務を放棄したのであれば、その国家の暴力行使を行う正当性を見いだす事が出来ません。
大衆の情緒的な反応や行動が、過去の歴史において何をもたらしたのか?
今、一番私が恐怖している事です。
今回の靖国参拝にしても、衆愚政治の典型を見ているようです。
まぁ日本人は、アジアの中で日本が一番だと思いたいんでしょう。戦後の復興で、そして電化製品などの技術において、「優れている」と思い込んでいる。アメリカには負けるかもしれないけど、アジアでは一番だと。だけど、この所中・韓に負けるような場面が多くて、気に障っているんじゃないのか、と言うのが正直の所でしょう。日本人の奥ゆかしい所である「謙虚」と言う心は、おそらく復興と同時になくなってしまったのでしょう。人々の心は、ほぼ押し並べて「利己主義」であって他人を尊重する「謙虚さ」は持ち合わせていないと言うのが現状でしょうし。
そもそも、どうしても中・韓が「気に入らない」のであれば、漢字や平仮名などを捨てて英語で暮らし、お盆や正月もキリスト教的に生き、顔も整形して欧米人になり、お米を食べずにパンを中心に食し・・・ってすればいいと思いますね。いずれも日本の文化とされるものの多くは、中国から韓国を経てやってきたものばかりですし。
それが出来ないのであれば、やっぱりアジア圏の協同が一番のグローバリズムの中の生きる術だと思うんですけどね。
>日本の軍事予算は世界でもトップクラス
そうですね。地雷廃絶のこのご時世に、おそらく数万個の地雷を保有しているでしょう。戦車やら何やら、一体どれくらいつぎ込んでいるのか。
そのくせ、
>財政状況が厳しいと称して障害者や老人を切り捨てる政府なのです
「うつ病患者」などを救ってきた32条を改正し、「自立支援法」などと「自立」を「支援」すると言いつつ実は改悪をどんどんとやってきています。しかも、この改悪は郵政民営化の話題にかき消され、どこのメディアでもまず取り上げなかったと言う、本当に陰に隠れてこそこそと変えてしまった法律でもあります。
おかげで、負担が増えました。
「うつ」のおかげで仕事もろくに出来ない時期があったりするのに、負担が増えては「自立」も出来なくなってしまうのではないかという危惧がいつも頭の中を付きまとっています。今までは5%負担だったのが10%負担と言うことは、2倍ですからね。大きいですよ。そして、消費税のUPと同様、これも負担割合をこれから上げていくのではあるまいか、という危惧も感じています。
とにかく、国民はそういう部分を見ていませんよ。
大きなものばかりに目が行き、小さいものには目を当てない。マスコミも悪いんですけど。それを如実に表すのが、私は「最高裁判所裁判官信任投票」だと思っています。明らかに「人々の考えからはかけ離れている」と思うような人間に対しても信任している。いや、考えずにただ投票をやっているだけなんでしょうけど。例えば、非嫡出子への不当な差別に対して『合憲』としている人間ですらも「信任」。「反対意見」を述べた人間であるのに他の人間と不信任票が変わりないような状況。
こういう状況を鑑みると、やっぱり・・・日本はおそらくずっとこのままなんだろうな、と感じます。