前にも書いているのですが、再度言いたい。
「がんばれ」と言う言葉は、ズルイ。

その本人にしては悪気はないのは分かるし、それ以上に励ましてくれようとしているのは分かる。しかし、頑張れない人もいる。頑張れなくて苦しんでいるのに、「頑張れ」と言われると、「自分は頑張れないダメな人間だ」と思って自殺したり、自暴自棄になったり・・・色々と起こるべくして起こることは多い。
だから、「頑張れ」とは他の人には言わない。
そもそも「頑張れ」は突き放した言葉だ。その言う側の人間は「頑張れる人間」若しくは「励ましてもらわなくても現在大丈夫な人間」であると言う感触がある。「頑張れない」方の「言われた側」の人間にとっては、「そんなこと言われても・・・」と思う人もいる。無論、多くの人は「そうだな、こんなに自分は励ましてもらえる存在だから頑張ろう」と思える人の方が多いのだが。

日本代表でもMITOでもそう。
応援はする。でも「そこで頑張れよ〜!」というような言い方はしてこなかった。いや、まぁスポーツ分野ならいいのかもしれないけど、それをいうことでやさぐれられたりしても困るので、言うのをはばかってきたと言う所か。中田が前半終了直後にGK川口のダメ出しをして、すっかり気落ちした川口に同僚GKの土肥が声をかける。そのあと後半最初に中田は川口に歩み寄り、今度は「まとまり」のために意思統一を図る。ここが中田の悪い所だと思う訳だけど、大きな声で(失敗した直後に)相手を批判してしまった所で、この代表のまとまりは終わったと言えるわけです。それで川口は中田流の「頑張れ」と言う言葉に「頑張れるだけの」力がなくなったとも言えます(中田は言葉がきつすぎる。相手に合わせた言葉や態度が出来ない点が、自分は中田があまり好きになれない部分である。言ってしまえば「自分はそういう言葉でも言われてもどうってことはないから、言う」というようなな自分勝手さを感じる=「頑張れ」と言う言葉も自分勝手と思えるように)。
だからこそ。
「頑張れ」と言う言葉(またはそれに類する言葉)は、慎重に発しなくてはなりません。しかし、今までどれだけ簡単に言われてきたことか。阪神大震災の独居老人の孤独死は、「みんなに励まされていたけれど」突然「自殺」した、と聞きます。人は頑張れない時があるものです。
しかし、自殺していいものでもありません。これは紛れもない事実です。それで悲しむ人はいます。喜ぶ人も中にはいるかもしれませんが、その人の喜ぶ指数と、悲しむ人の指数では悲しむ人の指数のほうが高いに決まってます。
では、どう励ますか。
それはその人の腕の見せ所であります。
「私はいつでも見ているよ、○○さんは優しいから、いつも心が和みます」
だとか、
「僕は××が憧れの的なんです。いつでも自分で切り開き、いつでも自分の信念を持っているから」
だとか、何でもあるかと思うんですけど、「頑張れ」と言う突き放した言葉だけではない、何かがあると思うんですよ、その声をかける人に対してのぴったりの言葉が。それが相手を思いやる言葉だと思うし、「頑張れ」と言うステレオタイプな、簡単な言葉ではない『重みのある』言葉になるんだと思います。

奈良の事件に関しては、「父親が期待を持ちすぎた」ために子供にとって「プレッシャー」となった、と言う意味では『頑張れ』の態度が事件に一因になったと言えなくもないでしょう。
だから私はこれからも「頑張れ」とは言いません。でもきちんとその人だけに送る言葉をかけて行きたいと思います。自分は現在、言葉を司る仕事をしていますから、それは私に課せられた宿命とも言えるでしょう。

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