06月08日付 朝日新聞の報道「愛知県の小学校35校で「愛国心」通知表」へのコメント:

評価段階は「◎○△」だそうなんですが。
私はおそらく「△」若しくはそれ以下でしょうな。

そもそも、何でそんなに国を愛さなければいけないのか分からない。それ以上に、人やモノを愛すなら分かる。概念を愛してくれといわれているようで、漠然としすぎている。例えば、隣人を愛せ、というキリストの言葉じゃないけど、国を愛すというのは隣人もそのまた隣人も、そしてその隣人の畠山容疑者などの犯罪者も含めて全員愛して、さらには台風だの大雨だの災害も愛して・・・というどこまで愛していいのか分からないし。

何度も書いているように、自分は戦争に行くのも行って死ぬのも行って人を殺めるのも、全部嫌だ。それは自分のカミサンにも失礼だし、それが「人間としての(言いようによっては『男の』)美学」というのであれば、自分は人間、若しくは男を捨てるよ。
何故に国を愛さなければいけない?
ネコのエサ缶詰CFにある「飼うというより一緒に生きてる」と同じように、自分にとっては『一緒に生きてる』というか、「そこにあるな」というような空気と同じような存在でしかない。空気は生きる上で絶対必須、だから国は必要なものではある。だけど、「空気を愛せ」と言われて愛す人はいないように国も愛せといわれても愛せない。それが普通なんじゃないのと思う。

ただ、普通に生きている人に対して、「国を愛しますか?」と聞いたら、「愛します」と答えるんじゃないのか。それはその方が聞こえがいいから。ましてやW杯を控えたこの時期にはなおさら。だからそれが真の意味で「愛国心を持っている」人が例えば70%を超えたとか言われても、それはあんまり意味を成さないんじゃないのか。
これまた何度も書いてきたけど、「愛す」なんて言葉を軽々しく使うものではない。その言葉の意味は広くそして大きく深い。だから答えた70%の中には「戦争で今すぐ北に行ってその結果死んでもいい」と思う人もいれば、「死にたくはないけどサッカーは好きだし」なんて思う人も含んでいるのではないのか。
どこまでを愛せというのも分からないけど、こうした「愛す」の概念さえよく分からないのだから、そういう意味で自分は愛国心はないと言っている。それを「△」若しくはそれ以下にするというこの通知表は、やはり人(先生)の主観によるものだから、怖いものと思わざるを得ません。


良く、「愛していないなら国を出て行けばいい」と言う人がいる。
しかし、それは的を射ていない。
というのも、「国は生まれる時に択べない」ということもあるし、また他の国に永住することへの各種面倒などを鑑みると、そこまでする必要性を感じないということもある。いずれにしても、「愛していなければ憎んでいる」という安直な二元論だし、「憎んでいる」であれば北への移住でもするだろうし、「憎んでいるわけではないが愛していない」という次元の人間にはそこまですることもないのだから、そういう二元論には与しない。もっというと、「愛しているからこそ文句を言う」という人もいるし、そうそう二元論で語れる問題ではない(「愛す」というのはそういうくらい奥行きのある言葉なのだから)。そういうことを言う人は、今一度、二元論の姿をを含め、自分の「愛す」の意味を問うて欲しいと思う。

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