01月17日付 ニュース 社会の報道「阪神大震災、17日で10年 (rd.nikkei.co.jp)」へのコメント:
あれは、大学の2年だったろうか。
その悲惨さに、閉口した覚えがある。これは、アメリカの同時多発テロの時も同じ。
ただし、その後アメリカの踏んだ地雷と知って、だいぶ気持ちは縮んだけど。
そして、入籍する人は、その兵庫出身。
震災にも遭遇している。
さらに、林原嬢のラジオを聴いていたというのもある(AM神戸)。
たまたまとは言え、何かしらの縁を感じているから、神戸のコトに就いては、今でも心に残っている。
たまたま家が遠いのと、家庭の事情もあり、また学生と言うこともあって、ボランティアには参加できなかった(なお、昔はボーイスカウトでボランティアはやってた)。
一方のスマトラ。
何がおかしいって。政府の対応。日本もそうだけどインドネシアね。
反政府軍との対立状態を世界に見られたくなくて、3ヶ月で海外の人間は要らない、と言っている。
それほど悲惨な攻撃をしているんだろうな、と思うにつけ、この災害があって何ヶ月かすると、原住民はこのことで心を痛めることが来るのか、と思うに、心から痛くなってくる。
そんな中。
私と同じような意見を書いている方がいらしたので、ほっとしたのでリンク。
http://mitsuweb.exblog.jp/1506446/
確かにその通り、と思ってならない。
私はちょっと前にJA宮崎経済連のCFのことに就いて書いた。
改めて、もう一度語る。
ここでは、家族の夕食の風景が描かれる。
会話が無く、シーンとテレビの音だけ。
・メールを黙々と打っている娘。
・ゲームに熱中する息子。
・つまらなそうにTVに顔を向ける母。
・新聞で顔を隠す父。
(多分こういう感じだったはず。見たい人は、日曜日の朝7時半のTBS系「儲かりマンデー」で見られます。)
そして、ナレーションで語りかける。
「最近あなたは、「いただきます」をいいましたか?
いのちに感謝。〜宮崎県・JA宮崎経済連」
そう。「いただきます」は重要なのだ。
そういえば、永六輔が、「いただきます」というのは略語だと力説していた。
「すべての生けとし生けるもののおかげで、私は生きていられます。今日も、この食物で私は生き長えられます。あなたに感謝して、いただきます」
そんなようなことを言うように、と指導していたのを思い出します。
まぁ、そこまで言わなくてもいいのですが、それ位の気持ちは必要だと思っています。
自分は調理師として仕事をしていました。
だからこそ、例えば生きた泥鰌やら海老を料理する場面に出くわします。
そのとき、やはり自分は一抹の心苦しさと共に、感謝の気持ちがわいてきます。
だから。
テレビ番組で料理が出来な女性芸能人が魚を触ってギャーギャー言っているのを見ると、本当に反吐が出ます(さらに、それをお笑いにしている番組関係者にも)。
「それを食べるのはお前だ。感謝しないといけないのにその失礼な態度は何だ」
と。
(ちなみに、永六輔は別な部分で、「いただきますが言えないようだから、人間と動物の間がおかしくなっているのではないか」と語っています。私もそう思ってます。感謝の心を忘れるから、例えばJRなどで人身事故が起こった時に平気で「迷惑だね」と言ったり、「何でいつまでも動かないんだ!」と詰め寄るサラリーマンが後を絶えない。JRの車掌さんが大変ながら真面目にやっているのにも拘らず、文句を言っている人(特にサラリーマン)は結構多い。これは東武鉄道の社員の話だけど、遺体の掃除もしないといけないのに。「ご苦労様」と言えるくらいじゃないと、人としてどうか。他にも、前にも書いたような交差点で工事をしていて警備員が車を停めようとしたら猛スピードでクラクションを鳴らしながら突っ走って行ったベンツの人間とか。工事は確かに迷惑かもしれないけど、「ご苦労様」と言わないまでも、手で合図を送って「有難う」と意思を送る位してもいいくらいだ。)
宗教的な意味合いから、クレームが来るのを恐れ「いただきます」を言わさず給食を食べる学校もありますが、手を合わせないまでも、「いただきます」の背景を教え、「いただきます」を言わせて食べさせたほうがいいと思っているのは、間違ってはいないと思います。
JA宮崎では、「感謝の心」を忘れずに、と言うことが言いたかったのでしょう・・・。私も正直最初、「何だか長屋の義太夫だな」とか思ってしまったものですが、今となっては本当に好きなCFです。
感謝を、自分ももっと言えるようにならないと。
そして、心温まる人に、もっと出会いたい。
そして、その人に感謝したい。
そうなれば、「嬉しさの倍倍ゲーム」だ。
伊集院光が、奥さんと一緒に、「その日出会った人(コト)のいい話」をお互いに発表するのが日課だと言っていた。
これもいいな、と思う。
感謝の心を、ずっと持っていられるように思う。
「好きしょ」に出会ってよかった(爆)。
「プリキュア」に出会ってよかった(笑)。
「Hollyhock」に出会ってよかった(肯)。
数ある友人に出会ってよかった(切)。
そして、入籍する彼女が、神戸の震災で何事も無くてよかった(謝)。
そういう「よかった」と言うことを見て、自分は成長できる。
そして、感謝して行けたら、と思う。
私は私の今までの人生が、今の自分を創っている。
「出会い」と「別れ」。
それは悔しいものも多かったけど、そうではないこともある。
嬉しい人との出会いは、全ての「悔しさ」を忘れさせてくれる。
そうした人に、感謝。
自分も、感謝されるような人間でいようと思う。
あれは、大学の2年だったろうか。
その悲惨さに、閉口した覚えがある。これは、アメリカの同時多発テロの時も同じ。
ただし、その後アメリカの踏んだ地雷と知って、だいぶ気持ちは縮んだけど。
そして、入籍する人は、その兵庫出身。
震災にも遭遇している。
さらに、林原嬢のラジオを聴いていたというのもある(AM神戸)。
たまたまとは言え、何かしらの縁を感じているから、神戸のコトに就いては、今でも心に残っている。
たまたま家が遠いのと、家庭の事情もあり、また学生と言うこともあって、ボランティアには参加できなかった(なお、昔はボーイスカウトでボランティアはやってた)。
一方のスマトラ。
何がおかしいって。政府の対応。日本もそうだけどインドネシアね。
反政府軍との対立状態を世界に見られたくなくて、3ヶ月で海外の人間は要らない、と言っている。
それほど悲惨な攻撃をしているんだろうな、と思うにつけ、この災害があって何ヶ月かすると、原住民はこのことで心を痛めることが来るのか、と思うに、心から痛くなってくる。
そんな中。
私と同じような意見を書いている方がいらしたので、ほっとしたのでリンク。
http://mitsuweb.exblog.jp/1506446/
確かにその通り、と思ってならない。
私はちょっと前にJA宮崎経済連のCFのことに就いて書いた。
改めて、もう一度語る。
ここでは、家族の夕食の風景が描かれる。
会話が無く、シーンとテレビの音だけ。
・メールを黙々と打っている娘。
・ゲームに熱中する息子。
・つまらなそうにTVに顔を向ける母。
・新聞で顔を隠す父。
(多分こういう感じだったはず。見たい人は、日曜日の朝7時半のTBS系「儲かりマンデー」で見られます。)
そして、ナレーションで語りかける。
「最近あなたは、「いただきます」をいいましたか?
いのちに感謝。〜宮崎県・JA宮崎経済連」
そう。「いただきます」は重要なのだ。
そういえば、永六輔が、「いただきます」というのは略語だと力説していた。
「すべての生けとし生けるもののおかげで、私は生きていられます。今日も、この食物で私は生き長えられます。あなたに感謝して、いただきます」
そんなようなことを言うように、と指導していたのを思い出します。
まぁ、そこまで言わなくてもいいのですが、それ位の気持ちは必要だと思っています。
自分は調理師として仕事をしていました。
だからこそ、例えば生きた泥鰌やら海老を料理する場面に出くわします。
そのとき、やはり自分は一抹の心苦しさと共に、感謝の気持ちがわいてきます。
だから。
テレビ番組で料理が出来な女性芸能人が魚を触ってギャーギャー言っているのを見ると、本当に反吐が出ます(さらに、それをお笑いにしている番組関係者にも)。
「それを食べるのはお前だ。感謝しないといけないのにその失礼な態度は何だ」
と。
(ちなみに、永六輔は別な部分で、「いただきますが言えないようだから、人間と動物の間がおかしくなっているのではないか」と語っています。私もそう思ってます。感謝の心を忘れるから、例えばJRなどで人身事故が起こった時に平気で「迷惑だね」と言ったり、「何でいつまでも動かないんだ!」と詰め寄るサラリーマンが後を絶えない。JRの車掌さんが大変ながら真面目にやっているのにも拘らず、文句を言っている人(特にサラリーマン)は結構多い。これは東武鉄道の社員の話だけど、遺体の掃除もしないといけないのに。「ご苦労様」と言えるくらいじゃないと、人としてどうか。他にも、前にも書いたような交差点で工事をしていて警備員が車を停めようとしたら猛スピードでクラクションを鳴らしながら突っ走って行ったベンツの人間とか。工事は確かに迷惑かもしれないけど、「ご苦労様」と言わないまでも、手で合図を送って「有難う」と意思を送る位してもいいくらいだ。)
宗教的な意味合いから、クレームが来るのを恐れ「いただきます」を言わさず給食を食べる学校もありますが、手を合わせないまでも、「いただきます」の背景を教え、「いただきます」を言わせて食べさせたほうがいいと思っているのは、間違ってはいないと思います。
JA宮崎では、「感謝の心」を忘れずに、と言うことが言いたかったのでしょう・・・。私も正直最初、「何だか長屋の義太夫だな」とか思ってしまったものですが、今となっては本当に好きなCFです。
感謝を、自分ももっと言えるようにならないと。
そして、心温まる人に、もっと出会いたい。
そして、その人に感謝したい。
そうなれば、「嬉しさの倍倍ゲーム」だ。
伊集院光が、奥さんと一緒に、「その日出会った人(コト)のいい話」をお互いに発表するのが日課だと言っていた。
これもいいな、と思う。
感謝の心を、ずっと持っていられるように思う。
「好きしょ」に出会ってよかった(爆)。
「プリキュア」に出会ってよかった(笑)。
「Hollyhock」に出会ってよかった(肯)。
数ある友人に出会ってよかった(切)。
そして、入籍する彼女が、神戸の震災で何事も無くてよかった(謝)。
そういう「よかった」と言うことを見て、自分は成長できる。
そして、感謝して行けたら、と思う。
私は私の今までの人生が、今の自分を創っている。
「出会い」と「別れ」。
それは悔しいものも多かったけど、そうではないこともある。
嬉しい人との出会いは、全ての「悔しさ」を忘れさせてくれる。
そうした人に、感謝。
自分も、感謝されるような人間でいようと思う。
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