自分を振り返りますか
2003年2月23日自分を、過去に遡って振り返ってみますか。
うちの家系は、岡山の出で、その昔は水戸光圀の家来の先祖がいて・・・。
・・・振り返り過ぎだって。
もとい。
ここでは何度も語っていたりもすることだが、自分が生まれた時、母親は死の淵にいたということである。
意識が遠くなり、いわゆる「臨死体験」というものをした、ということを、生前聞かされている。
今付き合っている人の背丈が、143cmであることも以前に述べているが、母親も、背丈が大きくなく、難産だったようで、帝王切開だったから、ということもあるのかもしれない。
そんな中で自分は生まれて、父親は男の子を熱望し何度も男児を欲しがり再婚を繰り返したから、自分に対する要求は凄まじかった。母親も、そこまでとはいかないまでも、母親の前の旦那との子供(今の父親違いの兄)の親権が取られたり(まぁ、詳しく書けないがどうもその旦那とやらは酷かったようだ)、ということもあり、だいぶ箱入りの様相であった。
そうして「期待」を込められてすくすくと成長していった訳だが、『勉強』という部分においてのみ、自分は親に誉められることを覚え、それ以外に誉められる、ということを知らなかったように思う。
「おもちゃも欲しがらない大人しいいい子」
というのを演じていた訳である。
実際に、これは中学の頃まで演じきっていたし、別にそれが辛いということもなかった。
中学の頃。
性にも目覚める頃だが、うちは男子校だった。
おかげで今でも女性は苦手だったりするのだが、その一方で、「やおい」といわれる男色マンガを思春期であるその当時、目にしてしまい、それ以来2次元の世界では「バイセクシャル」な自分ともなっている。
思えば、この頃から、
「演じきる」
ことに破綻をきたしたのかもしれない。だから、自分の部屋にテレビを置き、好きな番組を見るようになった頃でもある。
(ほとんどが自分がそれまで夢を見てこられなかった世界を見られるアニメーションばかりだった気がする。→この頃から、じぶんのおたくっぽい部分は顕現したのだろう。)
高校では、好きな女性もいたが、結局何もないまま過ぎた。まぁ、進学校でもあったので、仕方ないことでもあるが。
このときに、生徒会なんかをやったものだから、今でも高校のときの生活を思い出せるほどの3年間だった。
大学に入り。
大学で、初めて付き合った人がいた。初体験もその人で、その時だ。
1、2年だけは実家から離れて自炊生活をしていたが、それでも自分で自活できるほどではないし、かといって高校三年の時に母親が亡くなっていたし、週に1度実家に帰っていたので、実際には「自炊生活」をしたイメージがない。
ちなみに、調理師の免許は、大学の1年のときに取っている。
(車の免許より先に取る、って所が自分らしいと言えば自分らしい。)
大学の3年。
就職試験が始まり、CXやTXなどを受けた。結構いい所まで行くが、残念ながら採用にはならなかった。
今思えば、こういう活動をすればよかったな、とか思うのだが、残念のきわみ。もうどうしようもない。
就職浪人を決意する。
その歳。
父親が肺の病気で入院する。痴呆が始まる。
ちょうどときを同じくして、付き合ってる人に新しい男が出来て、別れざるを得ないことに。
まぁ、繋ぎとめる力が弱かったと反省もするが、うちの父親の事を考えるとどうしようもない。
どうしようもなく「痴呆」が進むことが怖かったのだ。
ともかく、入院の面倒は自分が見るしかなかった。
姉は、とっくの昔に(母親がなくなって1年ほど)好きな男を追いかけて蒸発してしまっていた。
(それは、自分にとってとても「羨望」だった。自分らは一緒になれなかったのに、好きなことをやれるとは、と。)
病院は、完全介護だったが、
1日行かないと、
「自分の部屋にポットを置いてきてしまった!」
だの、
「陣笠を盗られた!」
だの、妄言を吐くので、結果として自分がついていないと「痴呆が激しくなる」と思い、つきっきりだった。
退院後、家に戻って少しは良くなったが、やはり残る部分もあり、自分は就職を諦めた。
フリーランスで仕事をしていたのは、そのためでもある。お金にはならなかったが。
2002年になり、彼の痴呆は進行し、自分は地獄を極めた。彼が入院したときも何度も、首をくくって絞殺し、自分も病院から飛び降りようかとも思ったものだが、このときも何度も思ったものだ。
付き合ってる人は、その当時、今の人になっていたが、
「会いに行けない」
など、また昔の付き合ってる人との事を思い出さざるを得ないからだ。
この日記の最初の頃には書いてあるが、下の世話をしたりするうちに、自分はもう、生きているのかどうかも分からないほど、自分は困憊していた。
7月になり。
やっと彼を措置入院させる。
結果として、それが彼の死期を早めたことにもなったことは、慙愧の念に堪えない。
しかし、自分にとって、それ以上耐えられなかったし、多分そのままだったら、今こうして日記を書くこともなかったと思う。
付き合ってる人は泣き悲しみ、誰も救われない世界だったと思う。
だから、仕方ないと思うしかない。
8月になり。
自分はようやく自分の時間を持てた。
実家の町の議員の補欠選挙に打って出たのも、それがある。
実際に、自分はどの人間よりも修羅場を潜り抜けてきたと思うし、実際問題、介護問題やら何やら、自分には潜り抜けてきた大きな問題を、活かせると信じたからだ。
それは結局かなわないで、また自分は無職(フリーランスとも言う)となったわけだが、その時の経験はかなり自分に大きい。
その選挙が終わってすぐ。
付き合ってる人を家に招いた。
そのときは本当に幸せを感じた。今でもその時の感触は自分に残っている。
その付き合ってる人が来て、帰った翌々日。
うちの父親が急逝した。
死んだ原因もなんだか分からないような分かったような・・・という・・・。
その時を持って、自分は孤独になったことを意識した。
姉は7月に勝手に結婚していたようだし、自分はまだ一緒になっていない。
ということは、孤独なのだ、と思い知らされた。
これは、今もそうなのだが、やはり自分の戻るべき場所に人がいない、というのは、寂しく思う。
いる人が、羨ましい。
だから、10月になり、付き合ってる人の家で、その両親を見て、実は「羨ましい」と言うか、家ってこういうものだったんだな、と思えた。
母親が亡くなってから、自分にはそういう家庭的な部分を味わっていなかったので、本当に「感動」を覚えたものである。
11月になり。
今の会社の契約社員が内定。
急だったので、実家をそのままにして、首都圏に引っ越した。
まだまだ一人きりの生活は続く。
うちの父親が亡くなって、直半年。
喪が明けたら、一緒になるつもりでいるが、すぐと言うわけにもいかないし、一人きりの生活は、あと1年くらいは続きそう。
今にして思う。
「生きてりゃ何かしら悪くないか」
と。
PS:しかし、自分はへこみ屋なので、すぐへこむので、正直放送事故を出すと、だいぶ引きずりますね。
はぁ、気をつけないとな、自分。
うちの家系は、岡山の出で、その昔は水戸光圀の家来の先祖がいて・・・。
・・・振り返り過ぎだって。
もとい。
ここでは何度も語っていたりもすることだが、自分が生まれた時、母親は死の淵にいたということである。
意識が遠くなり、いわゆる「臨死体験」というものをした、ということを、生前聞かされている。
今付き合っている人の背丈が、143cmであることも以前に述べているが、母親も、背丈が大きくなく、難産だったようで、帝王切開だったから、ということもあるのかもしれない。
そんな中で自分は生まれて、父親は男の子を熱望し何度も男児を欲しがり再婚を繰り返したから、自分に対する要求は凄まじかった。母親も、そこまでとはいかないまでも、母親の前の旦那との子供(今の父親違いの兄)の親権が取られたり(まぁ、詳しく書けないがどうもその旦那とやらは酷かったようだ)、ということもあり、だいぶ箱入りの様相であった。
そうして「期待」を込められてすくすくと成長していった訳だが、『勉強』という部分においてのみ、自分は親に誉められることを覚え、それ以外に誉められる、ということを知らなかったように思う。
「おもちゃも欲しがらない大人しいいい子」
というのを演じていた訳である。
実際に、これは中学の頃まで演じきっていたし、別にそれが辛いということもなかった。
中学の頃。
性にも目覚める頃だが、うちは男子校だった。
おかげで今でも女性は苦手だったりするのだが、その一方で、「やおい」といわれる男色マンガを思春期であるその当時、目にしてしまい、それ以来2次元の世界では「バイセクシャル」な自分ともなっている。
思えば、この頃から、
「演じきる」
ことに破綻をきたしたのかもしれない。だから、自分の部屋にテレビを置き、好きな番組を見るようになった頃でもある。
(ほとんどが自分がそれまで夢を見てこられなかった世界を見られるアニメーションばかりだった気がする。→この頃から、じぶんのおたくっぽい部分は顕現したのだろう。)
高校では、好きな女性もいたが、結局何もないまま過ぎた。まぁ、進学校でもあったので、仕方ないことでもあるが。
このときに、生徒会なんかをやったものだから、今でも高校のときの生活を思い出せるほどの3年間だった。
大学に入り。
大学で、初めて付き合った人がいた。初体験もその人で、その時だ。
1、2年だけは実家から離れて自炊生活をしていたが、それでも自分で自活できるほどではないし、かといって高校三年の時に母親が亡くなっていたし、週に1度実家に帰っていたので、実際には「自炊生活」をしたイメージがない。
ちなみに、調理師の免許は、大学の1年のときに取っている。
(車の免許より先に取る、って所が自分らしいと言えば自分らしい。)
大学の3年。
就職試験が始まり、CXやTXなどを受けた。結構いい所まで行くが、残念ながら採用にはならなかった。
今思えば、こういう活動をすればよかったな、とか思うのだが、残念のきわみ。もうどうしようもない。
就職浪人を決意する。
その歳。
父親が肺の病気で入院する。痴呆が始まる。
ちょうどときを同じくして、付き合ってる人に新しい男が出来て、別れざるを得ないことに。
まぁ、繋ぎとめる力が弱かったと反省もするが、うちの父親の事を考えるとどうしようもない。
どうしようもなく「痴呆」が進むことが怖かったのだ。
ともかく、入院の面倒は自分が見るしかなかった。
姉は、とっくの昔に(母親がなくなって1年ほど)好きな男を追いかけて蒸発してしまっていた。
(それは、自分にとってとても「羨望」だった。自分らは一緒になれなかったのに、好きなことをやれるとは、と。)
病院は、完全介護だったが、
1日行かないと、
「自分の部屋にポットを置いてきてしまった!」
だの、
「陣笠を盗られた!」
だの、妄言を吐くので、結果として自分がついていないと「痴呆が激しくなる」と思い、つきっきりだった。
退院後、家に戻って少しは良くなったが、やはり残る部分もあり、自分は就職を諦めた。
フリーランスで仕事をしていたのは、そのためでもある。お金にはならなかったが。
2002年になり、彼の痴呆は進行し、自分は地獄を極めた。彼が入院したときも何度も、首をくくって絞殺し、自分も病院から飛び降りようかとも思ったものだが、このときも何度も思ったものだ。
付き合ってる人は、その当時、今の人になっていたが、
「会いに行けない」
など、また昔の付き合ってる人との事を思い出さざるを得ないからだ。
この日記の最初の頃には書いてあるが、下の世話をしたりするうちに、自分はもう、生きているのかどうかも分からないほど、自分は困憊していた。
7月になり。
やっと彼を措置入院させる。
結果として、それが彼の死期を早めたことにもなったことは、慙愧の念に堪えない。
しかし、自分にとって、それ以上耐えられなかったし、多分そのままだったら、今こうして日記を書くこともなかったと思う。
付き合ってる人は泣き悲しみ、誰も救われない世界だったと思う。
だから、仕方ないと思うしかない。
8月になり。
自分はようやく自分の時間を持てた。
実家の町の議員の補欠選挙に打って出たのも、それがある。
実際に、自分はどの人間よりも修羅場を潜り抜けてきたと思うし、実際問題、介護問題やら何やら、自分には潜り抜けてきた大きな問題を、活かせると信じたからだ。
それは結局かなわないで、また自分は無職(フリーランスとも言う)となったわけだが、その時の経験はかなり自分に大きい。
その選挙が終わってすぐ。
付き合ってる人を家に招いた。
そのときは本当に幸せを感じた。今でもその時の感触は自分に残っている。
その付き合ってる人が来て、帰った翌々日。
うちの父親が急逝した。
死んだ原因もなんだか分からないような分かったような・・・という・・・。
その時を持って、自分は孤独になったことを意識した。
姉は7月に勝手に結婚していたようだし、自分はまだ一緒になっていない。
ということは、孤独なのだ、と思い知らされた。
これは、今もそうなのだが、やはり自分の戻るべき場所に人がいない、というのは、寂しく思う。
いる人が、羨ましい。
だから、10月になり、付き合ってる人の家で、その両親を見て、実は「羨ましい」と言うか、家ってこういうものだったんだな、と思えた。
母親が亡くなってから、自分にはそういう家庭的な部分を味わっていなかったので、本当に「感動」を覚えたものである。
11月になり。
今の会社の契約社員が内定。
急だったので、実家をそのままにして、首都圏に引っ越した。
まだまだ一人きりの生活は続く。
うちの父親が亡くなって、直半年。
喪が明けたら、一緒になるつもりでいるが、すぐと言うわけにもいかないし、一人きりの生活は、あと1年くらいは続きそう。
今にして思う。
「生きてりゃ何かしら悪くないか」
と。
PS:しかし、自分はへこみ屋なので、すぐへこむので、正直放送事故を出すと、だいぶ引きずりますね。
はぁ、気をつけないとな、自分。
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