テロップなんかを作っていると。
漢字の間違いとかに気がつく。また、自分が間違った意味で使ってた文言などを見て、勉強になる。

思い込みというのは、本当に恐ろしい。

例えば、

「日本にいる中国人の多くは不法入国だ」
だとか
「イランはテロリストの巣窟」
だとか
「東大生は頭はいいけど交渉力がない」
だとか
「レモンの酸っぱいのはビタミンCのおかげ」
(これはちょっと違うか)
だとか
・・・・・・etc.

思い込みというよりかは、『紋切り型』な考え方、というのは、差別や偏見に繋がりやすい。
つまり、これもある意味「紋切り型」になってしまうのを恐れずに言うが、とある途上国で、「勉強が盛んでないことで差別が生まれる」ということが生まれてしまう。
しかしこれは、だいぶ的を射ていると思う。

「人間差別があって当然だよ、仕事のできる奴できない奴なんかもいるし・・・うんぬん・・・」

と、斜に構えてクールを気取った成人は多いけれども、じゃそれに対して、何かの行動を取ったのか、というと、それはしていないし、それをするつもりもないらしい。
ちなみに、こういうことを言う人は、何かしら心に劣等感を持っている人間で、本当は自分に自信のない人間だ、ということをおっしゃる精神科医がいたが、誰だったか・・・(要するに、差別があるから「自分はだめになった」という予防線を張るのだし、劣等感があるから自分の「男」としての「仕事をこなす」自分をそこの部分でのみ擁護するためにそういう論陣を張るらしい)。

今が、そういう人間にとっては、「楽しい」とまではいかないまでも、『満足』した人生であるから言えるのだろうけれども、人はそれは長く続かない。

それを、自分は親の介護・死を見て、痛切に感じ取っている。
最後に、弱者になるのは、明らか。
交通事故などで、急に夭逝してしまって・・・というのであれば別だが、病気で入院・痴呆が出てホームに・・・という段になった時には、確実に弱者になっている。

その時に、そういう人間は、

「おれみたいな弱者なんて相手にしないでいいよ。差別があるのは当然だからな。」

と、クールに、斜に構えてポーズを取り、死んでいくのだろうか。もしくは糞便を垂れ流すのだろうか。外を徘徊して、車に当て逃げでもされるのだろうか。

答えはおそらく。

「NO」、そうは望まない、

だろうと思う。
病院で、一人で一夜を過ごしたこともある自分だが、それも小学4年生のときで、このときの寂しさ、というのは、自分にとって「闇」が「恐ろしい」という方程式を、その後何年にもわたって植えつけた。
そして、そのとき、本当に心細い、と思った自分を支えたのは、看護士。
彼(女)らに、すがるしかなかった。

最後は、かっこつけてなんかいられない。
最後は、みんな死ぬという事象では、みんな一緒の終わり方をする。
つまりは、水子であろうが、どこの誰々さんで享年120歳だろうが、実際には平等。
「死」というのは人間の究極の「平等」。それは誰にも用意されてしまっていることなのだから、それに向けて、どうせそれに向かわないといけないのだとしたら、かっこつけて生活の尻尾が見えないようにと、ピリピリしたり、それが元で疲弊したいとは、自分には到底思えない。
考えてみたら、「生きている」だけで凄いことだし、それで十分。人生に必要なのは、「生きている」それだけだ。

雨の日でも、イイことはある
晴れの日でも、悪いことはある
葬式の日でも、人はお腹が空く
かっこつけたデートの最中でも、下痢にはなる
きれいに着飾った服の下はババシャツ
そして・・・。
こんな自分でも、自分の目指したマスコミに入って、仕事をしようと、一歩を踏み出せた。

「人生はあざなえる縄の如し」

というが、それを噛み締めて止まない。

だから、自分は、かっこつけて生きるより、ありのままを見せるし、ジタバタ抗っている部分を見せている。
果たして、どっちが人間くさく、どういう生き方が「最後に苦しまない」生き方なのか。
・・・これを考えて、自分は今日も生きていく。
「かっこ悪い生き方」の薦め、である。


PS:なぜか会社でこういうことを考えていたりした。・・・だからたまにボーっとしているのね、自分・・・。やはり「天然」だわ。
ちなみにですな。
だからと言って、ここで「オタク」を暴露している訳でもござんせん、っと。

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