うぬ〜。今日も怒った。

最初は、ズボンを冷蔵庫に入れてたこと。
あれだけおしっこをこぼしておいて、冷蔵庫に入れるとは、もう常識を超えてます。
あと、今日も睡眠剤を飲ませたのですが、寝ないので怒る。
暑いのなんだの。
自分の部屋にはクーラーもなく寝ているのに、クーラーつけてあげててもエライ言いよう。
わがままはやはり嫌いだ。

一人でトイレに行ったときの独り言を聞いて見た。
「先生!田中先生。6年生の先生。
起きてください。起きてくださいよ。」
とかなんとか。
本当に子供に帰ったんだな、と実感。
「友達と一緒に眠るんだ。」
とも。
そのあと、こっちに気づき
「鎌はないのか?。使えない鎌。」
とか聞いてくる。
以前からものに執着し、お金に執着する性格をあらわしている。
寝かせるとき、たしかに「財布が」「がまぐちが」という声を何度も聞いている。
なんというがめつさだ。
それのおかげで、母親は、疲弊し、そういう「うるさい」部分を、再三再四、文句を言っていた。
そのおかげか、自分もHPのプロフィールにあるが、「お金にうるさい人」が嫌いなタイプである、ということになっている。

やっと寝た模様。
・・・って確かめに行ってないけど。
昨日の付き合ってる人との電話のとき、何度か確認に行って、寝てるのを確認した。
その3回くらいのうち1回は、柱に前のめりにもたれるようにして、たって寝ていた。
ビックリした。
(と付き合ってる人に電話しながら確認しに行ってたので話したら、笑ってたけど、笑えない・・・。まぁ、しょうがないんだけど・・・。)
もうそこまで行ってるんだな、と思った事件でありました。

疲れた・・・。
今日は暑い中、お洗濯をしました。昨日できなかったしね。
暑いのなんの。
でも、面倒なので、外に干さず〜。
自分のは外に干すけど、彼のはいいでしょ。どうせあんまりきれいではないし。
(というか、旅館の大広間に干すと、部屋干しの匂いがしないのだ〜。)
あと、うちの町の教育委員会の広報紙「ふれんど」の編集会議にも。
暑い〜ってばてながら、校正してた・・・。
・・・・でも事情があるので、早めに抜け出して、また来週に集まることにした。
(今度はデイの日なので、ゆっくりでしょう。)
そんなことで、今日はあんまり寝てません。
電話で4:30までお話をしてて、9時には起きて、それでお洗濯で、お米の炊く用意をしつつ、洗濯物を干し、編集会議で、帰ってご飯を食べさせ、寝かせつけ、現在に至る。
まるっきり主婦ですな。
昨日は昨日で、家庭教師に行く前に、ぼろぼろになってたタオルを雑巾に縫ってたし、自分ってやはり女の人で生まれたら、かなりな「良妻賢母」なんだろうな・・・としみじみ。
でも、女性解放主義者なので、やらなかったかも。
はぁこれをヘルパーや家政婦でやってたら、だいぶ給料もらってるよ・・・。
そういう考えをすると、悔しい。

異常な暑さだったのもあり、外に「打ち水」をしても、あっという間に乾いちゃいました。
そりゃ、そういう温度だしな・・・。
ただ最近は晴れた日が嫌いかも。
明るいので、なかなか寝てくれないので。
・・・という介護している方は、かなりいると思われますが、いかがでしょう?。
冬ですと、湯たんぽを与えたら、あんまり出てこないですよね。寒いし。
冬ってそう言うのは便利かも。
でも、今度の冬には、彼は家にはいないんだけどね・・・。
あと、自分は暑いのが苦手です。
ぐたぐたになり、夏ばてもしやすいですしね。ミネラル分がどんどんのどが乾いて飲んでいるお茶と一緒に出て行くんだろうな・・・。
力が出ない・・・ふぅ。

ということで、今回はおよそ1500文字。
来訪者が80人程度になっております。ご来訪お疲れさまです。
ただでさえ普通使わないような日本語もあり、しかも長いので、読みにくいのではないか、って思うんですが。
以後お見知りおきを。


update on 12th 2:42AM

ついに、彼が寝室で何かやってる音がしたため、見てみると、しょうじを開けて、窓に向かっておしっこをしていた。
勿論、激怒。殴ってしまう。
この人は、もうとことんだめになっている。
そのあともふらふら。夜中の時間帯なのに、お昼だと思っているのだろう。
おしっこを雑巾でふき(トイレとか洗面所でのおしっこに対応するために雑巾を作ったんだけど)、しょうじをはずし、畳にこぼれたものもふきとる。
・・・・・・何をやってるんだろう、自分。
田舎のうす暗い部屋の片隅で、親のおしっこを始末している。
その人間は、非常に困っているけれども、自治体は何もしない。してくれない。「小さな町の大きな福祉」とうたったうちの町の福祉事業コピーもむなしい。
その人間は、そういう介護に疲れて、しかも将来を悲観している。
その人間に対し、ばかにするかのような人間が多数いる。
その人間が、どう人生に感じ、どう社会をにらみつけ、どう苦しむのか、考えて欲しい。

大阪の児童殺傷事件。
その犯人は、
「世の中の不条理を味わせたかった」
と語っている。
こうした人間が出てきてしまうのは、「人間がキレやすくなった」からではないと自分は常々考えている。
勿論、彼がやったことは大罪で、全くもって許されるべきではない。・・・が、彼がどうしてそうなったのか、を社会などは考えるべきである。
そういう人間がいなくなるために、死刑にすればよい、という考え方は議論を無視している。
なぜなら、それではまた彼と同じような人格が出てくるからだ。
その人間の生まれたその軌跡を通じて、人は『反面教師』に学ぶべきである。
弁護士の活動は、えてしてそういうものだが、「犯罪者を助ける」という形に国民には見えているようで、犯罪者を憎むばかりか、それを助けていると、その弁護士まで恨まれる現実が、日本にはある。
彼が、どうしてそういう事件を起こしたか、は分からなくても、その彼がどう屈折して行ったか、を人間として知るべきであり、しかしそれを無視して「死刑だ」というのは、性急過ぎる。
自分には、彼がどうして事件を起こしたのか、分かるような気がする。オウムもそうだし、宮崎もそうだ。むろん、自分がそうした事件を起こす訳はないし、したいとも思わない。
が、その事件への過程を分かっていることが、事件を未然に防ぐ手建てになる、ということは分かる。

他人のことはどうでもいい、という人間が増え、あまつさえ「情けは人のためならず」の意味を、「情けは甘えになり他人のためにならない」という意味に解釈する人が増え、それが一般化もした。
本来は、「情けをかけると、他人のためにするのではない、めぐりめぐり自分のものになりますよ、そう『人(他人)』のためではないんですよ」という意味であるが、そういう意味であることを知らない親がいるわけだから、子供がだめだめになるのも自明のことか。
人に「優しい」目を向ける。
「優しい」とは、「痩せやすい」が語源で、「他人の疝気を頭痛に病む」あまり「痩せ」てしまう人のことである。
人を思いやるために、自分が犠牲になる、自分が苦しむ、自分も一緒に泣く、という所業が、果たしてこれからの人間社会にはありえるのだろうか。

「他人の不幸は蜜の味」とは言うけれど、これは「そういう自分は人として最低である」という戒めの言葉でもある。
人が、「人」(支えあう)ことを、失ったときに、「人」は『人』ではなくなり、滅亡したと言えることになるのだろう。

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