今日も介護
2002年7月8日デイセンターに行ってる間、洗濯(自分のもの)をして、休んでいる暇がなかった。
デイの人は、
「こう言う日は、ゆっくりしてくださいね」
とか言うんだけど、無理ってものだ。
役所にも行くし、相談の電話も何箇所にもかけているので、ちょっとしか寝られなかった。
結局、在宅を中心にしたケアマネージャーなので、入所に関してはなかなか乗り気ではないのかも。
ちなみに。
近所の家にやっと回覧版を持っていった。見つけたものをもって行った。
そのときにも「これこれこうで、持ってくるのが遅くなりました。すいません。」と話したので、ちょっとはこれで回覧版のことも許されるかな。
さてさて・・・。
HPの下の方にあった「被害届」の話も、ちょっとは書かないといけませんね。
正直、あんまり動きは芳しくありません。
ただ、それがてこずっているのかとかは、定かではないでしょうし、自分としては、まだまだこちらも「証拠集め」をしていますので、それを含めて、さらに「被害届」にするかもしれません。
いずれにしても、私を本気にさせるとどういうことになるのか、場合によってはこれは
「しゃれ」
ではすまない、法的にも罰せられることもある、ということを教えなくてはいけません。
それをHPでまとめて、Yahooや2CHなどで困っている人のためになればとも思うし。
色々とこの人間のアクセスしたPCのIPから調査して見ると、面白いことが色々と分かってます。
「○○○○の○○ち○か○では、スタッフが荒れているのか〜。・・・となると、この悪意表現を書く人間もその一人で・・・」
とか、とあるHPの掲示板を見て思ってました。
詳しい話は書けません。まぁ、色々とあるんですよ・・・。証拠隠滅とかされたらたまらん。
人間って。
とくに、こうした事件を起こすのは、男性なんですけども、男性の多くは、「持ち上げると嬉しがる」ように、優越感を持ちますね。
それが仕事や容姿に表現できないと、掲示板などで「優越」を創造しうる。
「2CH」「Yahoo掲示板」は、そうした人間を生み出し、またそれにあぶれた人間の事件を生み出している、ということを考えると、どうも掲示板での『悪意』に関する取り締まり、というのは、自分は必要であろう、と思うんですが。
「表現の自由」というのは、「悪意」表現に対する「反抗する」表現(文章・美術作品などにこだわらず)も『自由』なのであり、私はそれをやっているに過ぎない。
つまり、「表現の自由」の侵害をしている訳でもないので、誤解なきよう。
閑話休題。
私が、その昔「男性であるより女性でありたかった」と思ったのは、そこもある。
つまり、「人を傷つけても人の上に立つ」というのは、たしかに男性性を中心とした企業社会の中では「必要悪」なのかもしれないけれども、それだけでは、社会って人間社会って・・・どう?、という思いがあり、それへの反抗でもありました。
自分たち『男性』という性を持った人間が、悪意と悪事の中にもまれ、それから成長して行くという考え方を、ぶち壊したかった、ということにでもなりましょうか。
「人は泣いて育つ」
というのは、「(悪さにも)もまれて」ということでは決してなく、「(喜びや悲しみ、ときに怒りや悪さ)にもまれて」なのであろう。
そうであると、信じたい。
一所懸命を笑う。
ひたむきな姿を冷視する。
優しさを弱さと取り違える。
正義や克己心を排除する。
人間臭さをうっとうしさとする。
色々と現代日本の心が、アメリカナイズし、つまり『合理化し、成功することこそが大命題であり、それへのフローチャートは関係ないとし、強い姿こそエライものだとして、アウトローたることがカッコイイ姿であると思い、日常の中で「人らしさ」を無視し「臭」を否定して』生きているということに、私は少なからず悲しさを感じる。
悲しさだけではない。
そうした中で、人は人であることを失い、事件にいたる人間も多くなっているのであろう。
これから。
人は人でなくなるのだろうか。
「泣く」という所業が、ゲームや映画やテレビの中だけで作られたもので、いわばコンビニ的「泣き」が世の中を席巻するのだろうか。
アニメーションや(ハリウッドとかではないちょっと昔の)映画などで将来の人間の姿は、現在はそれへの発展途上を思わせる。
その中で、ちょっと昔は、「宇宙食がチューブ」という姿に、空恐ろしさを感じたはずだ。・・・実際には、現在チューブで食事をしている訳では勿論ないのだが、それは「チューブ」という道具を使うことで、人の将来の姿を哀れんだ表現だったからではなかったか。
人が本当に将来頭で思うだけで会話ができ、物が届き、場所を移動し、仕事をして、食欲を満たし、眠り朝を迎える。
そういうステレオタイプな姿はありえないにしても、どこか人として寂しいことになるような、その過渡期にきているのかもしれない。
変わらなきゃ。
変えなきゃ。
じゃなければ、地球環境(一般的な環境だけではなく、心的環境なども含む)のために「滅亡」を「甘受する」かだ。
付け加え(on 9th 3:30AM)。
保健所の保健婦さんは、まぁ仕事の関連上もあるでしょうが、病院の痴呆入院施設をすすめてきました。
まぁ、たしかに悪くないかも、と思いました。そのときは・・・。で、しばらくはそれがいいな、と考えていました。
そう、彼から逃げたい、という一心で。
でも、夜半になり、身体拘束で業務改善命令の下ったとある精神科の病院のTVでのVを思い出しました。
発狂したかのように暴れる女性の老人など・・・etc・・・。
彼をそこに入れると、あれだけ動き回るので身体拘束があったとしたら、かえって酷くなりそう。
そうなったら、うちにモノを言わぬ形で帰宅してきたときに、シオシオな老木になっているような想像をした。やせこけたみすぼらしい老木。
そうなったときに、それを見て、自分は発狂しないという自信がない。
そのときに、「自分を苦労させたバツだ」と冷たく言える自信がない。思える自信がない。
できないかも・・・と弱気になった。
やはりグループホームを視野に考えそう・・・。料理も本当は元調理師、GHでやってできなくないだろう。共同生活で、自分の意思を取り戻し、戻ってこれないまでも、最後の終の棲家を楽しんで欲しい、と思ってしまう。
鬼になれない。
自分は、本当に甘ちゃんだな、と思う。
これでいくら損をしてきたかは分かっているのに、なかなか抜け出せない・・・。
今日、起きてから、お昼に介護保険の再申請をしたので、病院に所見をもらいに行く。
その場で相談するだろう。そのときには、「グループホーム」「老健」を軸に、それで酷くなったら「特養」としてもらいたい旨を言うと思う。
自分は、つくづく鬼になれないと思う。
イラストが書けない「絵的想像力」が欠けているが、人の心が自分に響き流れてくる「心的想像力」が自分にはあるようで、ついつい、あの身体拘束のばあさんの心・その家族の心・病院の心が流れこんできてしまう。
それで、目の前の一歩を明るく照らし、ふと歩みを止め、その正しさを熟慮する。
そうなると、自分は別の方向に歩みを向かわせることが多い。
今回もそうなりそう。
自分は、今日も遅くに熟慮し、悩むのだった。
現在3:45。
やはり、悩みは尽きない。でも辛さから抜け出せないのは、自分のそういう部分に大きく影響されているのだ・・・。
デイの人は、
「こう言う日は、ゆっくりしてくださいね」
とか言うんだけど、無理ってものだ。
役所にも行くし、相談の電話も何箇所にもかけているので、ちょっとしか寝られなかった。
結局、在宅を中心にしたケアマネージャーなので、入所に関してはなかなか乗り気ではないのかも。
ちなみに。
近所の家にやっと回覧版を持っていった。見つけたものをもって行った。
そのときにも「これこれこうで、持ってくるのが遅くなりました。すいません。」と話したので、ちょっとはこれで回覧版のことも許されるかな。
さてさて・・・。
HPの下の方にあった「被害届」の話も、ちょっとは書かないといけませんね。
正直、あんまり動きは芳しくありません。
ただ、それがてこずっているのかとかは、定かではないでしょうし、自分としては、まだまだこちらも「証拠集め」をしていますので、それを含めて、さらに「被害届」にするかもしれません。
いずれにしても、私を本気にさせるとどういうことになるのか、場合によってはこれは
「しゃれ」
ではすまない、法的にも罰せられることもある、ということを教えなくてはいけません。
それをHPでまとめて、Yahooや2CHなどで困っている人のためになればとも思うし。
色々とこの人間のアクセスしたPCのIPから調査して見ると、面白いことが色々と分かってます。
「○○○○の○○ち○か○では、スタッフが荒れているのか〜。・・・となると、この悪意表現を書く人間もその一人で・・・」
とか、とあるHPの掲示板を見て思ってました。
詳しい話は書けません。まぁ、色々とあるんですよ・・・。証拠隠滅とかされたらたまらん。
人間って。
とくに、こうした事件を起こすのは、男性なんですけども、男性の多くは、「持ち上げると嬉しがる」ように、優越感を持ちますね。
それが仕事や容姿に表現できないと、掲示板などで「優越」を創造しうる。
「2CH」「Yahoo掲示板」は、そうした人間を生み出し、またそれにあぶれた人間の事件を生み出している、ということを考えると、どうも掲示板での『悪意』に関する取り締まり、というのは、自分は必要であろう、と思うんですが。
「表現の自由」というのは、「悪意」表現に対する「反抗する」表現(文章・美術作品などにこだわらず)も『自由』なのであり、私はそれをやっているに過ぎない。
つまり、「表現の自由」の侵害をしている訳でもないので、誤解なきよう。
閑話休題。
私が、その昔「男性であるより女性でありたかった」と思ったのは、そこもある。
つまり、「人を傷つけても人の上に立つ」というのは、たしかに男性性を中心とした企業社会の中では「必要悪」なのかもしれないけれども、それだけでは、社会って人間社会って・・・どう?、という思いがあり、それへの反抗でもありました。
自分たち『男性』という性を持った人間が、悪意と悪事の中にもまれ、それから成長して行くという考え方を、ぶち壊したかった、ということにでもなりましょうか。
「人は泣いて育つ」
というのは、「(悪さにも)もまれて」ということでは決してなく、「(喜びや悲しみ、ときに怒りや悪さ)にもまれて」なのであろう。
そうであると、信じたい。
一所懸命を笑う。
ひたむきな姿を冷視する。
優しさを弱さと取り違える。
正義や克己心を排除する。
人間臭さをうっとうしさとする。
色々と現代日本の心が、アメリカナイズし、つまり『合理化し、成功することこそが大命題であり、それへのフローチャートは関係ないとし、強い姿こそエライものだとして、アウトローたることがカッコイイ姿であると思い、日常の中で「人らしさ」を無視し「臭」を否定して』生きているということに、私は少なからず悲しさを感じる。
悲しさだけではない。
そうした中で、人は人であることを失い、事件にいたる人間も多くなっているのであろう。
これから。
人は人でなくなるのだろうか。
「泣く」という所業が、ゲームや映画やテレビの中だけで作られたもので、いわばコンビニ的「泣き」が世の中を席巻するのだろうか。
アニメーションや(ハリウッドとかではないちょっと昔の)映画などで将来の人間の姿は、現在はそれへの発展途上を思わせる。
その中で、ちょっと昔は、「宇宙食がチューブ」という姿に、空恐ろしさを感じたはずだ。・・・実際には、現在チューブで食事をしている訳では勿論ないのだが、それは「チューブ」という道具を使うことで、人の将来の姿を哀れんだ表現だったからではなかったか。
人が本当に将来頭で思うだけで会話ができ、物が届き、場所を移動し、仕事をして、食欲を満たし、眠り朝を迎える。
そういうステレオタイプな姿はありえないにしても、どこか人として寂しいことになるような、その過渡期にきているのかもしれない。
変わらなきゃ。
変えなきゃ。
じゃなければ、地球環境(一般的な環境だけではなく、心的環境なども含む)のために「滅亡」を「甘受する」かだ。
付け加え(on 9th 3:30AM)。
保健所の保健婦さんは、まぁ仕事の関連上もあるでしょうが、病院の痴呆入院施設をすすめてきました。
まぁ、たしかに悪くないかも、と思いました。そのときは・・・。で、しばらくはそれがいいな、と考えていました。
そう、彼から逃げたい、という一心で。
でも、夜半になり、身体拘束で業務改善命令の下ったとある精神科の病院のTVでのVを思い出しました。
発狂したかのように暴れる女性の老人など・・・etc・・・。
彼をそこに入れると、あれだけ動き回るので身体拘束があったとしたら、かえって酷くなりそう。
そうなったら、うちにモノを言わぬ形で帰宅してきたときに、シオシオな老木になっているような想像をした。やせこけたみすぼらしい老木。
そうなったときに、それを見て、自分は発狂しないという自信がない。
そのときに、「自分を苦労させたバツだ」と冷たく言える自信がない。思える自信がない。
できないかも・・・と弱気になった。
やはりグループホームを視野に考えそう・・・。料理も本当は元調理師、GHでやってできなくないだろう。共同生活で、自分の意思を取り戻し、戻ってこれないまでも、最後の終の棲家を楽しんで欲しい、と思ってしまう。
鬼になれない。
自分は、本当に甘ちゃんだな、と思う。
これでいくら損をしてきたかは分かっているのに、なかなか抜け出せない・・・。
今日、起きてから、お昼に介護保険の再申請をしたので、病院に所見をもらいに行く。
その場で相談するだろう。そのときには、「グループホーム」「老健」を軸に、それで酷くなったら「特養」としてもらいたい旨を言うと思う。
自分は、つくづく鬼になれないと思う。
イラストが書けない「絵的想像力」が欠けているが、人の心が自分に響き流れてくる「心的想像力」が自分にはあるようで、ついつい、あの身体拘束のばあさんの心・その家族の心・病院の心が流れこんできてしまう。
それで、目の前の一歩を明るく照らし、ふと歩みを止め、その正しさを熟慮する。
そうなると、自分は別の方向に歩みを向かわせることが多い。
今回もそうなりそう。
自分は、今日も遅くに熟慮し、悩むのだった。
現在3:45。
やはり、悩みは尽きない。でも辛さから抜け出せないのは、自分のそういう部分に大きく影響されているのだ・・・。
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